絵画の映像化マネ

Edouard Manet 1832-1883 by F.Nadar 1865頃 「パリの肖像画」ナダール写真集より

Edouard Manet 1832-1883 by F.Nadar 1865頃 「パリの肖像画」ナダール写真集より

  • マネの野望
  • 第二回万国博覧会 頂点に立つアングル
  • 万博で一身に注目を集めた写真
    第二帝政期の写真
  • 時代をつかんだマネ
  • 古典絵画の映像化
  • マネの与えたショックを味わうには

マネの野望

Edouard Manet, The Spanish Singer or Guitarrero, 1861-2.

Edouard Manet, The Spanish Singer or Guitarrero, 1861-2.

マネが黒褐色のバックにギターをひく少年がうかびあがるスペイン画風の<ギタレロ>*を描いて念願の官展、サロンに初入選を果たのは一八六一年です。彼の野望は官展での名声を確立することでした。マネの関心は、あくまで官展で名をあげ当時の画壇の権威の座を占めることでした。彼はそのための絵画の新機軸を模索するうち、はからずも絵画の映像化を押し進めることになりました。
*サロン初入選と同じ図柄のエッチング、ゴヤの影響が色濃い。

「この画家(マネ)は、決して物語や感情を描きはしない。….彼は、人物画を、まるで美術学校で静物画が扱われる時のように扱う。つまり彼は、人物を、ともかく無造作に眼前に配置するのである。この時、彼の関心は、ただキャンバスの上に、その人物像が織り成す鋭いコントラストによって、人物を見えるがままに描くことに向けられるのである。」
エミール、ゾラ  吉川節子 「近代人の影へ」 美術手帳1986.8 より孫引き

ゾラの指摘する「人物像が織りなす鋭いコントラストによって、人物を見えるがままに描く」とは、対象の映像的な把握とその表現を指しています。またマネが古典絵画の限界点をこえて映像化を進めたため、絵画が変質し、かつての物語や感情が失われたことを「まるで静物画が扱われる」ように「無造作に人物を配置する」と指摘しています。

第二回万国博覧会 頂点に立つアングル

十九世紀中頃のマネをとりまく状況を知るために、一八五五年、ナポレオン三世によって、国威発揚をねらってひらかれた第二回万国博覧会をみることにします。
当時アングルは七十五才、ドラクロア五十六才、クールベ三十六才、マネは弱冠二十三才で自らの画風を模索している時期にあたります。アンリ.ペリュショによればマネは「その(絵画の)殿堂の中を何時間もゆっくりと歩きまわり、自分の時代の絵とは何か、その主流は何かを完全に把握することができた。」のだそうです。

1855 パリ万博のドラクロアの展示室

1855 パリ万博のドラクロアの展示室

若きマネの物語風な記述の是非は少しおくとして、ペリュショの博覧会の記述には当時の画壇の動勢がみてとれます。老齢のアングルがその古典主義を最大限に評価され、ドラクロアのロマン主義もようやく支持を勝ち取りました。しかし写実主義、リアリズムを標榜したクールベは傍系とされた処遇が不満で作品を引き上げ、美術の殿堂の真向いに彼自身のパヴィリオン(といっても小屋)を設けて作品を展示しています。
*第二回万国博覧会
「その博覧会ではアングルに最高の栄誉が与えられ、四十点以上の絵を携えて、彼は他の画家たちの上に君臨した。アングル主義が勝利を占めていた。….ドラクロアの三十五点の絵は大きなホールで一際光を放っていたが、彼はまだ芸術の{最高峰}に達していたとは思われなかった。….写実派の巨匠、ギュスタブ、クールベもまた満足しなかった。審査員は博覧会に送られてきた彼の作品のうちの二つの絵はとり除いた方がいいと判断したのだが、クールベ自身は、その二つの作品、<オルナンの埋葬>1849と<画家のアトリエ>1855 にひどく愛着を持っていたからである。….」
「マネの生涯」 アンリ、ペリュショ 1983 講談社

万博で注目を一身に集めた写真

ペリュショの記述は、彼の関心が絵画芸術の動向にのみ向けられているため、いかにも絵画芸術の展示がこの博覧会の中心事のように読めます。
しかしこの博覧会の中心を占めていたのはもはや絵画芸術ではありませんでした。この博覧会は「科学と工業の進歩に対する信仰の表明」として開催されていました。会の中心である工業の殿堂には、肖像写真、絵画に対抗して合成や修正がほどこされた芸術写真をはじめ、顕微鏡写真などのすでに科学や産業の分野に浸透し始めた写真技術が展示され、人々の話題をさらっていました。写真は芸術表現としてもしだいに社会的な認知を得、その後(一八五九年)には保守的な官展にも写真部門が設けられるようになります。
「写真と社会」でジゼル.フロイントは、 すでに一八五五年には、目ざとい写真家のデリディは「写真が、建築家や医師、技師、大工などの仕事の中ではもとより、プリント生地や陶器の製造といった産業の中でも、将来重要な役割を果たすことになるだろうと感じとっていた。」と述べていますが、「国民生活のあらゆる面において写真が与えることになる衝撃を理解していた」のはおそらく彼だけではなかったはずです。
フロイントは同著で、一九五五年のパリ万博での写真の展示についても触れ、写真が人々の驚異の的となりその存在を認知される様を記述しています。

*第二帝政期の写真1851~1870(引用)
「写真と社会」ジゼル、フロイント
「..パリ万国博の一環として開催された、一八五五年の大産業博覧絵では、写真がその一部門として展示された。この時はじめて、広範な大衆に写真技術が紹介されたのである。そしてこの展示が写真の産業としての発展の契機となった。それ以前は、写真は少数の芸術家や化学者などのグループ内部でしか知られていなかったのである。….この博覧会では有名人の写真が多数出品され、大衆は熱心にこれらの写真に群がった。今日では、それまではただ遠くの方から眺めて知っていただけの顔を、初めて目の前で見たときの衝撃を理解するのは難しいことだろう。一八五五年の博覧会はまた、カメラをみごとに芸術的に使いこなしている新しい写真家の存在を、はじめて知らしめたのである。」 

時代をつかんだマネ

絵画の展示の中を何時間もかけて歩きまわったマネは、すでに写真を知っていた少数の芸術家であったかも知れませんが、熱心に写真の展示に群がった大衆の一人でもあり得ました。また写真に群がる大衆を見て、その人をひきつける魅力に時代の脅威を感じた若き芸術家でもあり得ました。彼は何時間もかけてそれぞれの展示のなかを歩きまわり、あるいは瞬時に、時代の主流とは何か、自分の時代の絵はいかにあらねばならないかを完全に把握できたはずです。
言うまでもなく、時代の主流は写真であり、絵画は写真映像に対峙する表現力を持つ以外には、時代の先端にはとどまり得ませんでした。

古典絵画の映像化

マネの時代感覚は絵画の映像化に向かいましたが、彼の規範とすべき表現はあくまで古典絵画でした。ゴヤ、ベラスケスの様式を超えた達成こそ彼のめざす表現でした。彼はそこに印象派の色彩の強化や、写真の瞬時の映像化を超えた絵画空間を見ていました。
彼らの古典絵画の空間こそ真の達成でした。一方、当時サロンで権威をほしいままにするアングルら新古典主義の絵画は巨匠の達成を理解せずに古典表現の形式を追うばかりの古典の名に値しない表現でした。
彼は自分こそが時代を理解し古典を理解する画家だという気概をもっていました。マネの進める絵画の映像化が古典の達成に迫りそれを超えるための方策でした。
しかし、私たちがみてきたように写真の映像と古典絵画の画像はその成り立ち方が違っています。彼の営為はその違いを含んだまま古典絵画の主題を映像化するという矛盾のなかを進むことになりました。
「草上の昼食」や「オランピア」など、彼は古典で取り上げられた主題を再び取り上げ、写真の瞬時の映像に習った絵画の空間をめざします。しかし、それらの作品は、世間の評価を期待する彼の予想をことごとく裏切り、酷評にさらされました。
「まるで静物画が扱われる」ように即物的に人物を扱う、とゾラが指摘したように、マネの描写は当時の人々にとってはあまりにも即物的で生々しく、新古典主義の絵画のように形式化された美の世界の出来事として安心して見ることを許すものでなかったのです。

マネの与えたショックを味わうには

Great American Nude no.98, Tom Wesselmann,1968.

Great American Nude no.98,
Tom Wesselmann,1968.

今日の私たちが見ると、マネの画風は充分にアカデミックで重々しく映ります。それは時空がより高度化した現代では、マネの映像化の手法は古典の位置にあるからです。
当時の人々がマネの絵に受けたショックを想像するには、ちょうど時間を一世紀ずらして、人々がポップ.アートを初めて目にした時の感覚に重ねてみるとよいかも知れません。

例えばウッセルマンのアメリカン.ヌードは、映像的な裸体をもう一段階記号化し、現代の記号的な女性像を示し、人々に大いにショックを与えました。
雑誌や広告のなかでみるならまだしも、芸術の領域に置かれたアメリカン.ヌードは、芸術は日常よりも高い次元にあるものという私たちの通念をあからさまに否定するものでした。アメリカン.ヌードは、私たちを芸術の甘美さに誘わず、反対に現実の方に向かわせます。それは私たちを、現代の記号に囲まれた状況、マネの時代から時空がより高度化し映像が記号の意味を帯びてメディアに氾濫する状況、に否応なく対面させるのです。
さてもう一度マネの絵に戻ると、彼の絵の中では裸の女性は理想化された女神の姿でなく、現実の女性の裸体としてありました。それは保守的な人々にとっては理想の高みをめざすべき芸術の冒涜と映りました。彼の裸体描写は直ちに、当時出回ったポルノグラフィックな裸体写真を連想させたかも知れません。
しかし、マネに言わせれば、理想の高みをめざす芸術とされる新古典主義の絵画こそ、理想を追い求めるどころか人々の中庸を求める常識に寄り添い通俗化した表現でした。
彼には官展派の画家たちは、芸術の理想とはしかじかのものだという常識に安住するばかりで、高度化する時代の時空に対処する方法も感覚も持たない鈍感な人たちと映りました。彼らが占めている権威は自分にこそふさわしいとマネは自負していました。その地位を奪い取ろうと、マネは絵画の映像化を掲げて絵画の時空と映像の時空の矛盾のなかを突き進みました。