クールベの抵抗

Gustave Courbet (1819-1877) by F.Nadar,1861 「パリの肖像画」 ナダール写真集より

Gustave Courbet (1819-1877) by F.Nadar,1861 「パリの肖像画」 ナダール写真集より

  • 絵画の生き残り策リアリティの強化
  • 瞬時にせまる写真の進化、リーウェリン
  • 瞬時の表現ナダールの写真
  • 永遠の時間を求めるカメロンの写真
    コロジオンプロセス
  • クールベの限界

絵画の生き残り策リアリティの強化

さて最初にリアリズムと呼ばれる絵を描きはじめたのはクールベだといわれています。
若林氏も指摘するように、クールベの絵画の危機への対処は、神話や物語の世界を離れ、現実の世界を対象にすることで絵画のリアリティを回復しようとすることでした。
クールベは絵画の図像をよりリアルなものにするために、写真を使いました。彼はあくまで古典的な絵画の枠組みを変えずに、そのリアリティを強化することをめざしました。
人間の目はカメラとは異なり、彼が見ようとするもののみをうつしだします。
画家の眼も例外でなく、彼の制作に不用なデティルは省かれ、彼が見るべきものだけをうつしだします。対象の何を見て何を省略するかは、本来それぞれ固有の判断があるはずですが、それがしだいに規範化され形式化されたのが古典絵画です。
一方写真映像は、画家の意図しないディテイルをも含んだ対象全体の映像を、光学的条件を忠実に反映してうつし出します。

「石割り人夫」1849

「石割り人夫」1849

クールベはしばしば人物の写真を実際のモデルのデッサン代わりに使いました。彼は写真映像のリアリティを取り込んで形式化した古典絵画の規範を強化し再構築しようとかんがえました。
古典絵画では当然省略していたディテイルをも写真に負けじとばかりに描き込み克明な描写を何層にも重ねたので、「石割り人夫」1849 などにもみられるように彼の絵はとても重々しいものになりました。


「オルナンの埋葬」1849 で彼は宗教画の近代化を試みています。

「オルナンの埋葬」1849 部分

「オルナンの埋葬」1849 部分

この絵はキリストもマリアも登場しない宗教画です。彼が描いたのは現実の知人の埋葬に集まった実在の人々でした。その手法はかつての宗教画と同様に、祈りを捧げる人物が組み合わされ構成されています。しかし知人たちのポーズはかつての宗教画に入り込んだかのように、硬く不自然にみえます。


「出会い」 1854

「出会い」 1854

「出会い」 1854 にもみられるように、彼の絵の日常の情景はあまりにも重々しく、登場する普通の人々のポーズも鈍重でなにか芝居がかってみえてしまいます。クールベは現実の対象をよりリアルに絵画化すれば、現実の典型としての象徴性を負わせられるとかんがえました。
しかし彼の対象を現実に求め、写真映像を取り入れる古典絵画の強化策は、かえって古典絵画そのものがすでに「絵空事」にしかみえず、近代から遅れた古い表現時空であることを、よりあらわにしてしまいました。

瞬時にせまる写真の進化、リーウェリン

イアン.ジェフリーによれば、 一八三九年には一五分から三〇分の範囲にあったダゲレオタイプの露光時間は、四〇年代には一〇秒から一分のあいだに短縮されていました。紙ネガのカロタイプでは一、二分をの露光時間を要していましが、一八五一年には湿式コロジオン法が開発され、秒単位にまで短縮されました。撮影に対象の長い静止を必要とした初期の写真は、ようやくその制約を離れつつありました。

煙を吐くジューノ丸, テンビー波止場, 1854,John Dillwyn Llewelyn,1810-82

煙を吐くジューノ丸, テンビー波止場, 1854,John Dillwyn Llewelyn,1810-82

リーウェリンは一八五四年夏、「絶えず動く波」の撮影に挑戦しました。上首尾の結果を得た彼は、漂う雲や汽船の吐き出す煙など動く対象を写真にとらえ、一八五五年のパリ万博に「動き」と題した四枚の組写真として出品し、銀賞を受賞を得ています。写真が瞬時をとらえる時代が間近にせまっていました。写真は臨場感と瞬間性を除々に高めるようになり、「一八六〇年代までに写真術は、一瞥や一瞬の感情といった速写表現にも十分対応できるようになっていました。イアン.ジェフリー「写真の歴史」

瞬時の表現ナダールの写真

コロジオン湿板によって瞬時をとらえる本質的な機能を確立した写真は、ナダールやカルジャの高度な描写力をもつの表現を生み出しました。
特にナダールが一八五四年から一八七〇年にかけて撮影した当時の著名人たちの肖像写真は、人物の性格を一瞬にしてえぐり出すかのようなするどい切れ味をみせています。ナダールは、アングルにみる古典的な絵画の様式をふまえ、しかもそれをを越えた写真の高度な描写能力を如何なく発揮しました。彼の写真をみてますます青ざめた晩年のアングルの顔が目にうかぶようです。アングルは一八六七年に八六才で亡くなっています。

永遠の時間を求めるカメロンの写真

遅すぎた遅すぎた 1870頃

遅すぎた遅すぎた
1870頃

一方、女流写真家のジュリア.マーガレット.カメロンは、写真の高度な描写力によって臨場感や事実性を追及する方向を嫌い、ソフトフォーカスで不必要な描写を省略しむしろ表現性を高めようとする写真をめざしました。彼女は一八六五年から七O年代にかけて、コロジオン湿板によるロマンチックで物語性の強い肖像写真を制作しています。


習作1866 Julia Margaret Cameron, (1815-79)

習作1866 Julia Margaret Cameron, (1815-79)

「習作」1866 や「ある婦人の頭部像」1867 をみると、柔らかく浮かびあがる女性の顔はその無垢なつかの間の美に焦点をあて、かつて古典絵画が求めた永遠の時間に変えようとするかのようです。(彼女の写真もで撮られている)
写真に瞬時を求めるナダールと永遠をめざすカメロンの表現を二つの頂点にして、当時の写真表現がひろがっていたとみることができます。
「写真の登場」章 コロジオンプロセス(引用) を参照。

クールベの限界

古典的な絵画に現実を対象にさせ、近代化する世界の意味を象徴的に担わせようとするクールベの試みは、彼の力業にもかかわらず、すでに高度な時空としてある現実の方から無効にされ陳腐化されてしまいます。クールベの粘着質の抵抗は、写真映像の威力と近代の現実認識の進化をあらためて浮きぼりにしました。
かつてアングルが思わず「おおっぴらに言うことでない」ともらしたことからも分るように、画家たちは写真の高度な再現性に対してうわべは超然とした態度を保っていましたが、写真に対抗する手法を確立せずには生き残れないことは自明でした。
彼らは絵画の優越性を保存しつつ写真に対抗できる方策をひそかに練ったのです。絵画の映像化はおもてむきはあくまで絵画自体の必然的な流儀の変化として、言わば暗黙裡に進められたのです。
しかしクールベの試みを限界点として、絵画は解体の危機を迎えます。それ以上映像への指向を強めれば絵画は何ものかを失いその変質は避けられなかったからです。それでもあえて絵画の映像化をさらに進めたのはマネでした。