アングルの抵抗

  • 絵画の永遠を信奉するアングル
  • 難しい技術でなくなった写真
  • 古典絵画の概念化度
  • 常識をくつがえす写真映像
  • 中庸の美学と大衆化路線
    最初の肖像写真家たち
    官展にみる保守的芸術
  • 絵画を真似る写真
    Dominique Ingres カルト.ド.ヴィジット(1780-1867)
  • 常識をくつがえす写真映像
  • 古典絵画の形骸化
  • 近代絵画の二つの動き
  • 世界の映像化をめざす写真

 

絵画の永遠を信奉するアングル

Jean-Lous Igout による裸婦モデル 写真

Jean-Lous Igout
による裸婦モデル
写真

「…私たちのうち誰が、いったいこれほどの正確さで描けるだろう….このモデルの繊細なことはどうだ…写真とはなんと驚嘆すべきものだろう。だがこんなことは、おおっぴらに言うことじゃない。」 ドミニック、アングル

新古典主義絵画の巨匠アングルの言葉にもみられるように、写真の表現力はすべての画家にとって脅威でした。実際、彼らが一手にこなしていた肖像画の領域がナダールらの肖像写真によって大きな打撃を受けはじめていました。


Felix Nadar 1820-1910「パリの肖像画」ナダール写真集より

Felix Nadar 1820-1910「パリの肖像画」ナダール写真集より

当時画家として最高の権威の座にあって、まだ鷹揚に構えていたアングルらでしたが、その後のあまりに急速な写真の普及ぶりに驚き、一八四六年にはついに写真を不正な競合業種として禁止するよう時の政府に訴えをおこしています。写真がいかに正確に対象を映しだそうとも、それはあくまで機械をつかった低次の表現である。そのような写真がギリシャ.ローマの流れを汲む神聖な芸術の領域に侵入してくるのは許せない。芸術表現と写真とはあくまで一線を画すべきものだというのが彼ら古典主義者の表向きの主張でした。

難しい技術でなくなった写真

「ボードレール (Charles Baudlaire 1821-67)の像」 1856頃 by F.Nadar 「パリの肖像画」ナダール写真集より

「ボードレール (Charles Baudlaire 1821-67)の像」 1856頃 by F.Nadar 「パリの肖像画」ナダール写真集より

一九世紀の半ばには、必要な用具はすでに市販されるようになり写真技術は実用的な段階に入っています。絵画表現と比べて長い修行を必要とせず、古い師弟関係にも無縁の写真は、新しい芸術的な職業として脚光を浴びることになりました。四O年代中頃から末端の芸術家たちをはじめ、多くの写真専業家が生まれ、肖像画をはじめとする絵画の領域を侵食していきました。

*最初の肖像写真家たち (引用)
「写真と社会」ジゼル.フロイント
「写真が公共の財産として誰にでも使えるようになってから四年目頃に、最初のプロレタリア知識人たちがパリに登場した。ボヘミアンとよばれる人々である。そして最初の写真家たちの多くは、この芸術家集団に属していた人々であった。
生まれたばかりの写真に興味を示した集団には、名をあげることの出来なかった画家たち、時々雑文を書いては生活費の足しにしていた詩人や作家、写真の発明によって生活の手段を奪われた細密画家や彫刻家、こうした人々が皆含まれていた。要するにどんな分野であれ、二流の才能しかなくて成功できなかった者たちが、よりよい生活を約束してくれそうに思えたこの新しい表現手段に身を転じたのである。
十九世紀の中頃までには、写真技術は実験的段階を抜け出し、写真家たちは もはや特別な知識は何も必要としない地点にまで到達していた。必要な道具は今や専門の工場で作られていたし、現像液、定着液の準備にも、もう特殊な化学的知識は不必要であった。
様々な大きさの装置が、数多くの光学器械店でうられていたし。一連のわかりやすく書かれた写真術の教科書が出版され、必要な手順に関して正確な説 明を与えてくれた。フランスではわずか数百フランで写真工房を開設できたのである。」

古典絵画の概念化度

絵画の図像は私たちが実際に対象を目にしたときの視覚像と私たちが頭のなかでかんがえる対象の概念像の交差するところで生み出されてきました。
絵画の図像を作り出す方法は、かつては画家の概念と知覚の双方を具体化しさらにそれらを練り直すことの繰り返しでした。絵画の方法は個の認識、時空性を高めることでもありました。
しかしそれはしだいに個の認識を深める運動性を失い、概念像と視角像のあり方は定式化され古典絵画に至っていました。

「ベルタン氏の肖像」 1832 by Ingres

「ベルタン氏の肖像」 1832 by Ingres

古典絵画は、視覚像にそって対象がより本物らしく、実在するがごとく描かれる方法でした。そこでは画家の概念像は、社会的に認知を受けた世界観を基盤にして、例えば、人物の顔には当るべき適正な光があり、目鼻はどのように描けば感じがよいか、などなど対象の本物らしさの常識的で妥当なあり方として定まっていました。 画家は規範化された概念像に見合う要素を視覚像から抽出してすり合わせていけばよかったのです。

常識をくつがえす写真映像

写真映像の登場は人々のものの見え方についての常識を激変させ、古典絵画の概念像と視覚像の平和なバランスを崩してしまいます。写真は人間の視覚がとらえきれなかった世界の像を客観性の高い映像として提出し、視覚的な世界を一挙に広げました。その映像は人々の概念像と視覚像のあり方に根底的なゆさぶりをかけ、概念像にあつみを加え、より高次な時空をひらいたのです。
そこからみれば、人間の視覚のヒエラルキーの頂点に置かれていた古典絵画の図像は、視覚像と概念像がその古い約束事、絵画の規範によって相互に限定されてできたゆがんだ世界の像であることは、理屈抜きに誰の目にも一目瞭然でした。
古典絵画の図像は、確かに視覚像が集積されたものですが、その視覚像は画家の概念像(それは時代の通念として認知されたものではありましたが)とすり合わされて集積されるため、画家の意向や彼の技量によって異る恣意的な図像にならざるを得ません。
写真の映像を体験してしまった目には、絵画の図像はどうしても画家の意匠によって変形された世界の像に見えてしまいます。あるいは最もリアルに世界をあらわしていた絵画の方法が、写真によってその偏りをあらわにされてしまったというべきかも知れません。

中庸の美学と大衆化路線

当時のアカデミズムの画家たちの考え方を中庸(ジュスト.ミリュー)の美学と呼びます。それは絵画の表現規範を人々の趣味の水準に合わせて下降させていくことに他なりませんんでした。彼らは古典絵画を大衆化してその需要を掘り起こしましたが、表現としては自らの絵画を通俗的なレベルに埋没させてしまいました。そして彼らの肖像画をはじめとする需要の多くは、すぐさま写真にとって代わられます。
低コストの写真制作の方法を開発し肖像写真を爆発的に普及させたのが写真家 ディディリ(ユジェーヌ.ディズデリ)です。デリディが一八五四年に開発したカルト.ド.ヴィジットと呼ばれる名刺写真は大流行し、一八六O年代に広く収集の対象となり一九世紀いっぱいまで大衆的な人気を得ていました。
当時写真家がその地位を確立するには写真は絵画より劣った機械的な対象の再現だという常識を覆す必要がありました。彼は一八六二年「写真術」をあらわし、当時の保守的な絵画の規範であった中庸の美学をそのまま写真に転用してその芸術性を強調しています。
彼は写真は絵画に劣らず自然の光景を独自の様式、遠近法、光、影で再現できると主張したのです。それによれば、良い肖像写真とは、次の要点を満たしているものでした。

1、感じの良い顔
2、全体が明瞭
3、暗部、明部 、中間部がはっきり区別されていること。
4、自然な釣り合い
5、影の部分の細かな描写
6、美しさ!        「写真と社会」 ジゼル.フロイントより孫引き

彼に代表される写真の潮流は、言わば写真の古典絵画化にあたります。彼の主張から写真の高度な再現性を突出させずにいかに古典絵画の概念像にすり合わせ、当時の無難で最も需要の多い芸術観に沿った表現を目指したかがみてとれます。
しかし写真の普及は止まるところを知らず、その成功で尊大にふるまようになったデリディ自身は競合する写真業者のより廉価で気のきいた写真によってたちまちその地位を奪われてしまいます。大衆の趣味にあわせて、写真の高度な映像を中庸をよしとする絵画のレベルに押さえ凡庸無難で廉価な写真をめざしたところに、彼の肖像写真の大衆化路線の一時の大成功と急激な没落の原因がありました。

*官展(サロン)にみる保守的芸術(引用)
「写真と社会」 ジゼル、フロイント1986 御茶ノ水書房
「…ブルジョワジーの芸術的好みは、ルイーフィリップによって開始された毎年の展覧会にその典型をみることができる。その展覧会は、美術館の館長や、アカデミーの会員、政府公認の芸術観に同調するアマチュア画家たちから構成される審査員によって支配されていた。その当時正統と考えられていた芸術に対する、いかなる脅威をも排除することを目標としていた彼らは、ロマン派、とりわけドラクロアの作品はすべて、そして風景画はどんな様式のものであれ、この展覧会から締め出したのである。ルイ、フィリップは、愛国心と、彼の統治に対する敬意を高めることが芸術の主要な機能であると考えた。…彼の芸術に対する好みもまた、彼の政治を導いたジュスト、ミリュー(中庸)の哲学によって導かれていた。彼は革新の敵として生まれついていたのだ」
「―略(ジュスト、ミリューの)画家が目指したのは、買い手が喜ぶような顔を描くことであり、何を犠牲としても、顧客に対する礼を失せぬことであった。ブルジョワジーの好みに迎合することで生計をたてていた画家たちは、次第に質の低い絵を生み出すようになった。小奇麗で、平凡で、上品なものがブルジョワジーを一番喜ばせるものなのだ。正確に描かれた細密画、感じのよい赤や緑で描かれた、正確ではあるが感情のこもらぬ絵、なめらかな彫刻、細部にわたるまでの忠実な再現…」
「…美術品を所有したいと考える平均的なフランス人には、肖像画を買うにも、胸像、メダル、宗教画、墓積を買うにも手引が必要だった。そして彼らは、公に認められた画家たちを主体性なく受け入れたのである。その結果、どんな画家でも、その収入はアカデミーが決める基準に従う意志がどれだけあるかによって決まることとなった。こうして、一般大衆の美意識は、それ自体ブルジョワジーの価値観を正確に表している、国家の機関によって形づくられたのである」

絵画の中庸の美学を真似る写真

写真に対するアングルの抵抗は、時代の高度化する時空に対する人々の常識の抵抗に裏打ちされていました。
人々は写真の絵画をうわまわるリアリティに驚きながらも、容易には絵画が写真よりも高尚だとする通念を捨てなかったのです。写真家自身も多くの場合、その通念に迎合していました。
例えば、当時の写真家、ジャン- ルイ イグー(Jean-Lous Igout)の人物写真は明らかに古典絵画のイメージに沿って撮られています。
イグーのそれをはじめとするこれらの写真表現は自身が絵画の下部であることを受け入れ、古典絵画の素材となることもいとわない地平にその活路を見いだそうとしていました。

Jean-Lous Igoutの裸体モデル写真は、A .カラヴァ(A . Calavas) によって出版された。木の葉の丸い額縁のまえで飲み物を注いでいる裸婦モデル。

Jean-Lous Igout のアカデミックな 人物写真

Jean-Lous Igout
のアカデミックな
人物写真。

また写真は絵画より劣った機械的な対象の再現だという常識を覆すべく、写真の芸術性を主張する試みもなされました。しかし、それは写真の映像が絵画の図像をうわまわっているという主張ではなく、写真も絵画と同等の表現であると言うにとどまっています。
ディディリ(ユジェーヌ.ディズデリ)は一八六二年「写真術」をあらわし、当時の保守的な絵画の規範であった中庸の美学をそのまま写真に転用してその芸術性を強調しています。彼は写真は絵画に劣らず自然の光景を独自の様式、遠近法、光、影で再現できると主張したのです。それによれば、良い肖像写真とは、次の要点を満たしているものでした。


1、感じの良い顔
2、全体が明瞭
3、暗部、明部 、中間部がはっきり区別されていること。
4、自然な釣り合い
5、影の部分の細かな描写
6、美しさ!

彼の主張するように、多くの写真家は、写真の高度な再現性を突出させずにいかに古典絵画の概念像にすり合わせ、当時の無難で最も需要の多い芸術観に沿った表現を目指したのです。
デリディは廉価な名刺版の写真、カルト.ド.ヴィジットを考案し、彼の写真業は大いに繁盛したそうです。しかし写真の普及は止まるところを知らず、その成功で尊大にふるまようになったデリディ自身は競合する写真業者のより廉価で気のきいた写真によってたちまちその地位を奪われてしまいます。
大衆の趣味にあわせて、写真の高度な映像を中庸をよしとする絵画のレベルに押さえ凡庸無難で廉価な写真をめざしたところに、彼の肖像写真の一時の大成功と急激な没落の原因がありました。

ユージェーヌ・ディスデリが特許を取った名刺判カメラ1854年、ユージェーヌ・ディスデリが特許を取った名刺判カメラ。
1枚のネガを分割して8~12枚の写真が撮れた。
「写真130年史」田中雅夫ダヴィッド社1970より


*カルト.ド.ヴィジット(名刺判写真)(引用)
「肖像写真を名刺判、すなわち、約六×九センチの大きさに縮小したことが、デリディ (1819~1890)の巧妙な思い付きであった。金属板の変りに当時すでに発明されていたガラス.ネガを使用し、通常の五分の一のコストで十二枚のプリントを作ることができたのである。
デリディは十二枚の写真に二十フランの料金を求めたが、以前は写真一枚で五十フランから百フランもしていた。大きさと値段とを変化させることによって、彼は広範な人々に写真を手に入れやすいものとしたのである。肖像写真はこうして突如として下層中産階級でも手に入れやすいものとなったのである。」
「写真と社会」ジゼル.フロイント

絵画を真似る写真

Oscar Raijlander,「人生二つの道」1856

Oscar Raijlander,「人生二つの道」1856

古典絵画の規範に迎合した写真は、写真技術によって絵画的な表現をなぞろうとします。それは言わば、写真の古典絵画化とでも呼ぶべき領域を生み出しました。レイランダー(Oscar Raijlander,1813-75)は画家がデッサンを組み合わせるように、多数のネガを組み合わせ、古典絵画と同様の寓話的作品、「人生二つの道」1856などを制作しました。

ロビンソン(Henry Peach Robinson, 1830-1901)もレイランダーに追随した写真表現を展開しました。レイランダーの作品は、ちょうどアングルらの古典絵画の領域を写真技術でなぞるかのようにつくられています。
アングルは写真映像を芸術家によって純化されていない、機械の切り取った生の現実のままの映像だとして絵画芸術の下部に位置づけました。しかしその実、写真の現実をそのまま再現する能力は、彼を心底驚愕せしめたのでした。レイランダーはその写真映像を古典絵画のイメージの中に持ち込みました。古典絵画のイメージが写真映像に埋め尽くされた時、その合成された映像は彼の意図を超えて、古典絵画が表現しようとしていた永遠の時間が時代に対していかに陳腐化しているかをあからさまに示しました。

近代絵画の二つの動き

このような古典絵画の形骸化に対する近代絵画のありかたは、時代の時空のより高次なレベルに概念像を求めようとする動きとともに、表現が成立する初源に還り概念像を求めようとする動きが想定されます。またもうひとつの要素である視覚像は写真映像の体験を繰り込んだものに変化するのですが、そのなかから同じように視覚そのものを問う動きや視覚の初源に還ろうとする動きも出てくるはずです。

世界の映像化をめざす写真

世界の映像化をめざす写真写真は中庸の美学に安住する一方で、時代のリアリティをあらわす新たな表現領域としてもありました。写真は芸術の領域に止まらず、多くの領域に踏み込み、事実のあからさまな映像を提出しました。人々は辺境の地の映像や顕微鏡写真など、今まで図像以外には想像するしかなかった領域の映像を次々に目にすることになりました。「ナダール君、写真を芸術の高さに上昇せしむ」1862 ドーミエによる石版画

ナダールは得意な肖像写真の他に、空中からの市街写真や地下壕の写真など新たな領域の映像化を試みています。ナダールの一八五七年の論文には、自らの築いた表現領域に、中庸の美学に乗った安易な技術主義が氾濫するのをみる苛立ちが感じられます。
「写真の理論は1時間で学ぶこともできる。1日で、どうすればいいのかの理解も得られる。だが、学ぶことができないのは、光に対する感覚である。異なった、あるいは複合した光源がもたらす効果を、芸術的に把握することはできない。これは人物の描き出す、あれこれの陰影を理解することであり、芸術的直感力を必要とする。」F.ナダール  「写真の歴史」アーロン.シャーフより

ナダールの上の文は、画家が芸術的な能力を要するように、写真表現も「芸術的直感力」、「光に対する感覚」を必要とするのだ、と主張するに止まっています。つまりここでは、写真をめざす者も芸術の素養が必要だと述べているに過ぎません。写真映像にみる彼の鋭利な感覚に比べてその言葉はあまりつきつめられてはいません。むしろ彼は行動の人だったようです。
ナダールをはじめとする多くの写真家がさまざまな領域に踏み込み、時代の現実を切り取り人々に次々とその映像を提供しました。そして近代の時空性の高度化と写真によるその映像化は、人々の世界観に根底的な変化をもたします。
アングルらの抵抗にもかかわらず、近代という時代の動きは何ものにも止めようのないものでした。かつて、「世界のあらゆるものは本になるために存在している」と喝破したマラルメにならって、「今日のあらゆるものは写真になるために存在している」とスーザン.ソンタグが指摘するように、世界の映像化をめざす写真は、あらゆる領域へ浸透していき、現在にいたるまで果てしない展開をみせることになります。