2012公開講座「やさしい美術講座 古典・近代・現代」 資料ー2 現代

2012 公開講座「やさしい美術講座 古典・近代・現代」
― 現代美術の誕生と発展 ―        資料-2  現代美術

1.アメリカ現代美術の誕生

 20世紀初頭、アメリカは大量生産・大量消費システムを基盤にした現代社会のシステムをいち早く立ち上げた。かつてのヨーロッパの職人制度では、職人によって、高精度の事物が生産されてきた。長く修業を積んだ職人は、作ること全体を把握する少数精鋭のプロ集団である。一方、1904年、T型フォードの大量生産に端を発するアメリカの大量生産システムでは、分割された単純作業の集積(記号化)によって機能的生産品が大量に生み出される。
その作業をなすのは多数の素人の労働者である。彼らが作ることの全容を把握する必要はない。彼らはまたその大量生産品の消費者でもある。現代はこの素人集団である一般市民の時代でもある。
こうした生産・消費構造の激変によって記号(情報・大量生産品)が都市空間を網羅する記号システムが出現し、記号による疎外の状態がきわだつようになる。
現代美術は、このような現代の社会システムに生きる個人の記号による疎外の表現である。芸術家の多くは疎外の解消を求める一般市民のあいだから誕生する。彼らは芸術についても素人であり、エリートが保持するかつての表現方法はとらず、自らの発想に基づいた独自の表現を立ち上げる。

1)アメリカ現代美術の前衛性の種をまくデュシャン

 20世紀に入り、ヨーロッパ近代社会はいきづまりをみせ、第一次大戦、第二次大戦に向かって凋落する。この間に多くの文化人、科学者、芸術家がアメリカに逃れた。アメリカ現代美術の発端は彼らが携える近代芸術前衛部分の流入だったといえる。1915年、そのうちの一人、28歳のデュシャンがアメリカに渡る。
「近代絵画はあまりにも網膜的だ」と、デュシャンは画家たちが最上位にすえてきた感覚作業を降格させ、新たな世界の見方を概念としてつくりだす精神の自由を芸術表現の最上位にすえる。彼はそれこそ芸術本来の仕事として、志高く時代のあらたな世界観を生み出すことをめざす。

 「階段を降りる裸体No.2」1912で、デュシャンはゆきづまっていたキュビスムを異なる位相に発展させる。キュビスムでは、画家の視点を動かせることによって時間の要素が導入されたものの、描く対象自体は従来の絵画を踏襲し、静止した状態に止められていた。
デュシャンが描いたのは運動する人体の概念的な連続像である。
彼は運動を表現するにあたり、新たな「概念」を導入する。彼は、階段を下りる「裸体」の運動に当時新らたな世界観として注目を集めるアインシュタインの相対性理論を「わずかに拡大解釈して」適用する。その上で、天体の運動と同様にそこに引き起こっているはずの超微細な時空の変容をイメージして表現する。
現代の機械文明のうちでは強大な威力を誇示する科学だが、実証不能なイメージ領域では無力であり、この変容については判断不能となる。一方の芸術はイメージ領域では、科学を圧倒することも(からかうことも)できる。
デュシャンの表現は、知的で皮肉なユーモアをかもし出しつつ、科学・技術の見方の限界を示し、かんがえる主体、人間の優位を主張する。

デュシャンは現代社会で許された行為は「選ぶ」ことだけだと主張し、既製品を「レディ・メイド」と名づけ新たな芸術作品とする。レディ・メイドは、機能を追求する科学・技術と、視覚的な美を求めるかつての芸術双方の見方の限界を示し、批判することから考え出されている。
デュシャンの前衛性は、50年代のネオ・ダダ、60年代のポップ・アート、ミニマル・アート、70年代のコンセプチュアル・アートなどなどの開花を呼ぶ。

2)アメリカ独自の絵画誕生 抽象表現主義絵画 ポロック

 ポロックは通常の絵画修業に難渋した。対象を見える通りに描こうとしても、うちからあふれる感情に押され、意図せず線が乱れたり絵具がはみ出したりして思うにまかせなかった。1943年、ペギー・グッゲンハイムの引き立てによって画壇にデビューを果たすが、彼女の勧める半具象、半抽象の表現にも彼のうちなる感情は満たされることはなかった。
長い模索の末、ポロックは絵画の枠組みからイメージを捨て去り、カンバスを床に敷き、筆先から絵具をたらすポアリングに行きあたる。それは、従来の画家としての技量を放棄する、後のない捨て身の転身であった。ポロックは、ただ無心に、無意識レベルの心の動きとシンクロすることのみを念頭にひたすら絵具をたらし続けた。
それは、大量生産システムの効率主義から疎外された現代人の表現である。
デ・クーニングが「ポロックが氷を割った」と喝破したように、近代絵画の限界を打ち破ったのは芸術エリートによる技巧的表現ではなく、自己表出の一点に集中させた画家のすべてのエネルギーの発露によるポアリング表現であった。アメリカはポロックの抽象表現主義絵画によってようやく独自の芸術を手にした。

 ポロックは、画家になるにはまず絵画技術を習得すべきとする従来の考え方に適応せず、現時点の状態のまま自己を表現する<即の表現>を求めた。彼は、当時の芸術エリート、シュールレアリストたちによるオートマティズムの占有状態にも強く反発した。
ポロックが援用したのは、「画家誰もの引く線が無意識とつながる」とするジョン・グレアムの線のオートマティズムの考え方だった。
自己表出によって人間性の復権をめざすポロックの反エリート主義の表現は、アメリカ芸術の特徴である素人性(ポピュリズム)に通じている。

3)ポップ前夜 ネオ・ダダ ラウシェンバーグ ジョーンズ

 ネオ・ダダの表現は兵役帰りの二人の若者によってなされた。既成の価値観を吹き飛ばすような暴力性に満ちた表現は、かつてのダダイズムを思わせ、「ネオ・ダダ」の呼び名がついた。「万策をつくして現在をあがめようとつとめている」というラウシェンバーグは、遺棄されたゴミやガラクタを寄せ集め、原色の絵具を塗りたくった。それは、「現在」の記号、ゴミと「芸術」の記号である抽象表現主義の激しい塗りをコンバイン(接合)する表現である。

 ネオ・ダダのもう一人、ジョーンズは都市の最上位に位置する記号「星条旗」に着目する。彼は「星条旗」を抽象表現主義風の激しいタッチで塗りこめる。そのタッチは蜜蝋で作ったいわば偽の抽象表現主義絵画であり、抽象表現主義絵画全体を記号化するものだった。ジョーンズの「旗」は都市の記号とも「芸術」の記号とも見える。どちらか一方と見ると一方の意味が消え去るという概念的な仕掛けであった。
ジョーンズは私たちが日常現代の記号に依拠することの危うさを批判的に表現した。

 ネオ・ダダの表現には、日常の事物の登用、概念の操作など、デュシャンの影響が色濃い。ネオ・ダダは現代の芸術と記号のあり方を問いながら、抽象表現主義絵画とその後のポップ・アートをつなぐ役割を果たした。

2.アメリカ現代美術の開花 物質主義の批判と謳歌

1)ポップ・アートの登場

 ポップ・アートは、現代の日常生活を取り巻き、マス・メディア上にあふれる記号をそのままモチーフにし、けばけばしい芸術の記号として再提出する。
ウォーホルは機械生産と手わざによる「作る」の落差をわざと見せる。ファクトリーの素人集団にシルク・スクリーンの版合わせは重荷だった。版のずれは防ぎようなくあらわれる。刷りの技術を習得するには、何年もの修業を要するだろう。だが、それでは「現在」を即表現するのに間に合わない。ウォーホルは発想を逆転し、そのぎこちない手わざの痕跡をそのまま残す。版のズレは自己表出の要素として人間の現在を強く主張する。
ウォーホルはポロックと同じく、誰もがなし得る<即の表現>をめざしたといえる。

 一方、リキテンシュタインは手わざの痕跡を技巧を駆使して隠す。廉価の印刷で多用されるドットによる淡い色彩表現。彼はこの機械による均一な指示表出性をそのままなぞってあたかも印刷されたかのように描き、より完璧な芸術の記号をめざした。
そこには機械的な記号があるばかりで人間の息づかいはない。このスタンスの違いは大きい。

ポップ・アートの特徴

 ポップ・アートの大きな特徴は現代社会への賛美と批判が同置され、ないまぜになっている点である。この特長がアメリカの現代美術の二面性をもたらしている。
アメリカの現代美術の表現は、個の自己表出としてなされている面からみれば、社会への批判の表現(疎外の表現)だが、社会におかれた美術、指示表出性の面では、自国の社会を称揚し喧伝する国家的、文化的役割を担った表現としてある。

2)ミニマル・アート

 ポップ・アートの登場によって、日常のあらゆる事物、記号がアートに転用可能となった。ポップ・アートは現代の物質主義を謳歌する表現でもある。ポップ全盛の潮流に芸術の本質とは何かを問う反動が生じる。ミニマル・アートはこの動きの一つとして登場する。抽象表現主義の感情過多の表現への反発からの転身もあっただろう。
1958年、ステラは黒の塗料による刷毛の幅のままのストライプに絵画の要素を限定する。彼の絵画のミニマル化は絵画の要素還元、といえるだろうか。画面上の要素がストライプに限定されたがゆえに黒の塗料の物質性が際立った。その意味では、ステラのミニマル・アートは物質性を記号として強く打ち出す「ポップ」表現としてもあった。
ステラは現代の工業製素材の強い物質性に惹かれ、表現を変容させていく。まず黒一色のストライプに色彩塗料やアルミ塗料を導入し、さらに多くの物質的要素を注ぎ込む。それらはついにはストライプを超え、70年代には混沌とした立体作品にいたる。ミニマル・アートとは彼にとっていったい何を意味したのだろうか。

 ジャッドが都市の空間を要素還元し行き着いた最小の要素は箱型の立体である。彼はこの箱型をスペシフィック・オブジェクツと呼び、現代を象徴する独自の記号とみなした。色彩の施されたスペシフィック・オブジェクツは、モンドリアンの抽象表現の立体版に当たるといえるかもしれない。
だが、少しつき離してそれらをみると、彼の付与した意味は恣意的で、装飾的な金属製の単なる箱でしかない。
ジャッドは作品の矮小感をふり払おうと作品を巨大化するが、それらは、草原に建築途中で放棄された建築部材のようにもみえる。
ジャッドの概念レベルの追究は、拡大する現代の生産・情報システムに対峙するには、十分とはいえず、むしろシステムの追随に終わっている感がある。

3.記号システム社会の発展と芸術における記号化の進展

1)概念アート 記号の意味を問う芸術  コスス

デュシャンの「精神の自由を芸術表現の最上位にすえる」概念表現のあり方に影響を受けたコススは、1969年、論文「哲学以後の芸術」で、現代では芸術こそが哲学に代わり、科学・技術の視点をも超えて世界をとらえる営みであると主張するに至った。
コススの「一つにして三つの椅子」1965は、都市の記号システム上に自ら作成した記号を提示するインスタレーション表現である。インスタレーションとは、事物の一般的な意味の脈絡をいったん排除し、作家の感性によって、自在に時空を構成することを通してあらたな世界観の創出をめざす表現である。
コススのインスタレーション表現はその前段として、現代の記号システム社会とその構成要素である記号の意味を「探索」(investigation)する意義を待つ。ここで提示される事物は実物を含む三種類の椅子の記号である。それらは、探索のためのサンプルとして自己表現をゼロに押さえられている。
「第七番目の探索」1970の垂れ幕についても同じことがいえる。
この必然的な設定が同時にコススの表現の限界ともなっている。コススの概念芸術の意義は、80年代に都市の記号システムを自己表現のシステムに転用する作家たちの登場の呼び水となったところで尽きている。

2)絵画に埋め込まれた壊れた皿 新表現主義 シュナーベル

 70年代、ベトナム戦争の失敗、ウォーター・ゲート事件発生など、巨大化するアメリカの生産・情報システムは負の現象を生み、社会の閉塞感をもたらした。
レストランで働くシュナーベルは、自らの生活の低迷と社会に漂う閉塞感が重なり行き場のない「絶望感」にさいなまれる。彼の絵画自体はレストランを飾る複製画のように凡庸だった。彼はゴミ捨て場に捨てられた皿と絵画を接合する。いわば、皿と複製画の接合である。
これは皿なのか絵なのか、という違和効果一点が表現の成立根拠となっている。

3)「女」の記号を演じる シャーマン

 シャーマンは自身をさまざまな女性を演じる女優にみたてて一瞬の物語を設定しそのシーンを撮影する。異郷ニューヨークで生活を始めた彼女は、不安にかられ、容易に外出できなかったという。部屋にこもる日々のうち一人でできるこの表現を始めた。
シャーマンはかつてのポップ・アーティストたちのようにマス・メディアの記号を借用するのでなく、記号を生みだす生産システムの方を借用している。彼女は映画のスチール写真の制作システムに倣い、さまざまな「女」の記号を自作する。
それは現代社会からお仕着せられた「女」という記号を解析し、それを脱ぎ捨て自由になろうとするかのようだ。

4)自作の警句を提示する ホルツァー

 ホルツァーも、メディアのシステムを借り受ける作家のひとりである。彼女を有名にしたのは街頭の電光掲示板を使った表現である。株価や天気予報が流れるはずの巨大な電光掲示板に「私を私の求めるものから守って…」という個的なメッセージが流される。ふとそれに目を止めた人々は、まるで日常の裂け目から天啓を受けたかのような感慨にとらえられる。 彼女の表現の与えるショックを逆にたどると、私たちは日々天啓に匹敵するほどの強度を持つ情報をシャワーのように浴びている事実に思い至る。情報のシャワー状態に慣らされた私たちはその情報に洗脳されてはいないだろうか。
ホルツァーの表現は現代の記号メディアと人間の危険な関係をあからさまにする。

 彼女たちの表現は次第に過激化し、現代社会が生み出す不安を強く訴えかける記号に変転する。だが、現代の記号システムは、彼女たちの個の記号をあらたなデザイン記号とみなし、こともなげに飲み込み消費してゆく。

5)アプロプリエーション

 1990年前後に開花するアプロプリエーションは、高い自由度に達した現代の記号・情報領域のアナーキーな側面を敷衍、拡大して表現の場に適用する。彼らは、作家や作品のオリジナリティはもはや意味や価値が希薄だとして否定し、作品のモチーフとなる記号とともに制作システムをも既成のそれらから借用する。
振り返れば、日常の事物を記号として芸術に転用する表現は、デュシャンのレディ・メイド以来なされてきた。だが、生産・情報システムの進展に伴って記号と芸術の関係は変化をきたすため、それぞれの意味は異なっている。
50年代、ネオ・ダダのジョーンズの都市の記号国旗を芸術の記号と競わせる表現が有効だったのは、当時、まだ芸術が記号の上位を占めていたからだ。
60年代のポップ・アートは日常の記号即、芸術として両者を同等の位置に置く。その表現は背後の生産・情報システムがすべての事物を記号として並置する時点まで進展したことを反映している。
並置されてきた芸術の記号と日常の記号は、90年頃にはすでに混沌と流動の状況にあった。それを打破しようとする試みとしてアプロプリエーションが出現したと見ることができる。
彼らの記号とシステムの借用は、この記号の混沌状況から、自らの表現を芸術の記号として突出させることをめざすものといえる。その意味ではポップ・アートを過激化する表現であるとともに、後述するように、アートをビジネス化する側面を生み出すともいえよう。

ハーストは「神のあいのために」2007では、白金製の頭蓋骨を本物のダイヤモンドで埋めつくした。白金、ダイヤモンドの物質的な価値をアートの価値に取り込み、互いの記号的価値を刺し違えるように保障させる。いかにも卑近な表現である。

6)記号生産のシステムを借用するアートビジネスの出現

 彼らは現代の記号・情報のシステム化の動向に積極的に参画し、自らの芸術の記号を突出させるため制作を大規模化、システム化し大量の作品を頻出させる。この傾向は、ジェフ・クーンズ、デミアン・ハースト、日本では村上隆らに代表される。 2012年、ハーストはスポットペインティングによる個展を世界11か所で同時に開催するため、アシスタントを使い331点を一気に制作した。同作品は、さらに100人のアシスタントによって1500点が制作されているという。
彼は作品の芸術的価値を確保するため、ミニマル・アート、リキテンシュタインのドット表現など、かつての前衛表現との関連付けを怠らない。

3.自己表出性の行方

現代美術はどこに向かうのか?

 現代美術の現状はアートビジネスにみる大規模システム制作によって、指示表出性が突出した表現の記号が大量に生み出されていく。この状況にあって、ポロックが高度化させた表現の自己表出性はどこに行ったのか。繁茂するこうしたアートビジネスの表現に吸い込まれるように消し去られていくのだろうか。
表現の領域に限らず、現代社会においては、システム化の進行にともない、人間の個の要素が消去されていく。それは記号による疎外がさらに強化されていく姿である。

 現代美術の行方を探るには、表現行為から消し去られていくように思われる自己表出性の行方が鍵となるだろう。
そして実は、その鍵は私たちが握っている。
現代美術の表現は、あらたな芸術のエリートとして登場したアートビジネスの作家たちの占有物ではない。たとえば、教育の場において、生徒たちが見えなくなっている自己を求めて行う表現行為は、かつてポロックが苦闘の末なした<即の表現>とおなじ位相になされ得る。
あらたな現代美術の展開は、記号による疎外の状態に置かれた者が、自らの場で、見失いつつある自己を求めてなす表現から拓かれてくるだろう。

付記として

 デミアンが現代の記号をつきつめた表現から色濃く浮かび上がるのは死のテーマだ。
<メメント・モリ、汝ら死を想え>
アプロプリエーション表現の興隆は、かつて決別したはずの宗教画の復活をみるかのようだ。現代美術の記号の追究は、生を待ち受ける死を表現することに行きついて終わるのだろうか。
そんなことを考えていたら、現代美術の種をまいたデュシャンの最後の作品「遺作」が思い浮かんだ。
女性のあられもない姿。その手は現代の文明を象徴する灯を掲げている。
あの作品のテーマは、「誕生」だったのではなかったか。
彼は自らの死とひきかえに、生の灯が光を発し始めるように作品を仕掛けた。
電気仕掛けのその灯は人間の文明が続く限り灯り続けるはずだ。
「汝ら灯を掲げよ」と微笑みながらデュシャンは今も語りかけているではないか。
ならば、私たちも-

2012年10月1日