「近代からの跳躍」ジャクソン・ポロック

ジャクソン・ポロック

Jackson Pollock 1912-1956

1912
ワイオミング州、コディに生まれる。
1929 18歳
兄たちに伴われニューヨークに出る。
アート・スチューデンツ・リーグでT・H・ベントンに師事。
1930年代
後半からアルコール中毒
1938 26歳
FPA(連邦美術計画)で得た職を飲酒のため解雇される。
1939-40
ジョセフ・L・ヘンダーソンに精神分析を受けデッサンを描く。
1943 31歳
ペギー・グッゲンハイムの「今世紀の美術」画廊の新人画家となる。
1949 37歳
ベティ・パーソンズ画廊三回目の個展で、ポアリングによるイメージを描かない絵画が評判となり、大ブレークする。
1950 38歳
同画廊四回目の個展の大作群が売れず新たな絵画の模索はじめる。
1956 44歳
飲酒運転、自動車事故で死亡。

One: Number 31

One: Number 31

One: Number 31,1950,269.5×530.8cm The Metoropolitan Museum of Art,

ポロックはただ描くために描くというアクション行為そのものの持続だけで成り立つ、近代絵画とは全く違うアート芸術表現を始めました。この画面からは具体的なイメージは一切消え失せています。彼の制作は通常のそれとは異なり、画面を床に敷き、筆や棒から絵具、塗料を滴らせ四方から画面を埋めていくというものです。画面は躍動する激しい絵具、塗料の線や飛沫の集まりです。ここには地下のマグマが煮えたぎっているかのような、エネルギッシュなアクション行為の結果のみがとどめられています。
近代に入ると、画家の描く行為はようやくタッチとして画面にあらわれるものの、本来、画家の描く行為は絵画の空間の背後にかくされるべきものでした。
現代に至り、近代絵画の行き詰まりに直面したポロックは、大胆にも、画家たちが最も重要と考えてきた絵画の要素、イメージを描くことを絵画から捨て去ります。後に残されたのは描くというアクション行為だけです。彼はその描くというアクション行為だけを頼りに、都市空間のなかで見失われた本来の自然につながろうと苦闘します。もはや後に引けない彼のアート芸術表現は、絵の具、塗料に託された彼の精神の集中と緊張に満ちています。

近代絵画からの跳躍

ポロックの表現が現代美術の始まりであり、同時に近代芸術の終わりです。
近代芸術の到達点は、キュービズムや抽象画の自然の抽象化の表現でした。
絵画の再現性を極限にまでつきつめた表現がモンドリアンの抽象画でした。
彼は、自然の再現にこだわる近代絵画を批判し、対象世界を色面と水平、垂直の線というミニマムな要素にまで還元してしまいました。
一方、絵画の表現性を強調することから抽象画に至ったのがカンディンスキーです。
彼らの抽象画は絵画の再現性、表現性を極限までつきつめたとはいえ、依然として近代絵画の枠組みにとどまる表現でした。
キュービズムは対象を基本要素であるキューブの集積に還元する試みでしたが、対象の再現を捨てない限りその先には進めませんでした。

デ・クーニングが「ポロックが氷を割った」と言うように、第二次大戦後、それらの近代絵画の枠組みを打ち破ったとされるのが、ポロックの抽象表現主義です。  それは近代の絵画の表現の限界面からのさらなる跳躍でした。
ポロックは、何かを描くという絵画の常識を完全に捨て去り、ただ描くために描くという、描く行為自体を全面に押し出す、全く新たな領域のアート芸術表現を生み出しました。
ポロックに始まる抽象表現主義の登場は、アメリカの現代美術がヨーロッパ近代芸術から袂を分かち、ついに独自の道を歩み始めたことを意味していました。
かつて清教徒としてヨーロッパを後にしたアメリカ人は、芸術においてはその約二百年後、ついに自らの新領域を見いだすのです。

大恐慌の時代

ポロックの絵画は、現代都市からの疎外の表現であり、都市の繁栄の夢が破れた時代の精神の自己回復の試みでした。
ポロックがワイオミングの田舎からニューヨークに出たのは、モンドリアンが渡米する十年ほど以前の大恐慌のさなかです。
モンドリアンは再び立ち直ったニューヨークを、科学・技術が自然を抽象化した成果とみなして賛美することになりますが、大恐慌のさなかに身をおいたポロックが見たのは繁栄の夢が潰えた虚ろな現代都市です。
そこにあったのは、人々をかつてのよりどころであった自然から遠ざける巨大な障害物でした。生産と経済の効率を追求してきた都市のシステムの失速は、都市が自然と人間をいかに本質から遠いものに変質させていたかをあからさまにしました。

自己回復のための精神分析

都市の夢が潰え、アルコールに溺れるようになったポロックが自己回復のために頼ったのがユング派の医師による精神分析でした。

Sigmund Freud

Sigmund Freud
1856-1939

ところで、無意識の領域 を発見し精神分析学を興したのはフロイトです。フロイトの無意識説は、近代のシュールリアリズム、ポロックの抽象表現主義をはじめ、現代の表現にも大きな影響を与えています。ここで少し長くなりますが、彼の無意識説とそれに基づく精神分析学についてみることにします。

フロイトのいう無意識は、個人の心的体験が意識下に沈み込んだものでした。精神分析家の木田恵子氏が「無意識の中は、母の胎内にはじまり、もはや再生することも困難な人生の初期の体験から、抑圧されたさまざまの表象で満たされています。」と説明するように、フロイトは無意識の内容を個人の成長課程(親子関係)に限定して考えました。彼によれば、人間の性格を決定づけるのは胎児から幼児期にかけての心的体験です。彼は、そのうちの手ひどい体験が無意識の領域に沈み込み古い傷のように残されものを固着と呼びました。
養育者、主として母親との関係からダメージを受けた体験は、意識が記憶するにはあまりに危険でおぞましく、無意識の奥深く抑圧され隠されます。

普段、固着を抑圧し、内面の平静さを保つために、現実に向けるべき心的エネルギーのいくらかが消費されます。ところが、固着を抱える精神が環境の大きな変化に揺さぶられると、固着を押さえ込むためにますます多大なエネルギーを必要とするようになります。
心的エネルギーのほとんどを消費してしまい現実に立ち向かえなくなった状態が神経症などの症状だというです。

自由連想法

固着を意識のもとに引き出して、心的エネルギーの消耗状態を解消しようとするのが精神分析の自由連想法です。その方法は、患者は思い浮かぶことを判断を加えずにすべて話し、そこにあらわれた無意識の内容に分析者が解釈を加え、次第に無意識の内容に脈絡をつけていき、固着のあり方を患者に気づかせ解消するというものです。先の木田恵子氏によると、「この自由連想法を用いると、まことに不思議なほど着々と精神が退行してゆき、幼児の感情時には胎児にまで戻ってしまったかと思わせられるようなものまで表現されます。こうしてその人の性格が形成された歴史をさかのぼり、問題点を拾いあげながら赤ちゃんの最初まで行きつくと、再出発がはじまって、着々と成長課程をたどって進行してゆきます。そして問題点をできるだけ修正しながら現在に立ち戻ります。まことに、分析するのもされるのも忍耐根気のいる仕事ですが、一わたり終わって症状がきれいに消失する場合もあり、前述のようにとくに問題の箇所が何度もくり返し取りあげられた後、ようやく治癒する場合もある」 のだそうです。
また自由連想の受け方について木田氏は、「私どもは普通人と話す時は、これはつまらないことだとか、今日の自分の問題に関係のないことだとか、こんな話は恥ずかしくてできないとか、この話は不愉快だからやめようとか、相手(先生)に対して失礼だからこんなことは言えないとか、自分の話の内容をセーブしますが、そういう批判や選択を一切やめて、何でも浮かびさえすれば話すというのが基本です」と説明しています。

ポロックの荒れた無意識

ポロックは精神分析を受けたユング派の医師、J.L.ヘンダーソンに治療の一環として絵画療法を勧められ、自由連想による多くのデッサンを試みます。
フロイトの精神分析からそれらのデッサンを見ると、母子関係の悪さ、特に出産直後の母親の対応の悪さ、何らかの原因で子供に向けられた憎悪、を彼が体験したことを物語っています。  ポロックが人格の基礎を築くべき乳時期に味わった母親に対する渇望と憎悪、恐怖は、強度の固着点をかたち作り、彼の人格を揺さぶり生涯彼を苦しめたと考えられます。
木田氏も説明するように、フロイトの自由連想法であれば、性格形成の歴史を生を受けた時点までさかのぼり、そこから問題点をできるだけ修正しながら成長課程たどり直し現在に立ち戻るという、母子関係を主とした人格形成のやり直しがめざされます。しかし、後でみるように、ユングの分析では母子関係を主とする視点とは異なり、個人の持つ男性、女性の元型像の強度の問題として症状を解こうとします。
ヘンダーソンは、ポロックのデッサンに描かれた女性像の強烈さを、むしろアート芸術表現の可能性として興味を持ち、その進展を励ましました。しかし、彼の乳時期の欠損による無意識の荒れには手当てが届かず、ポロックの満たされぬ渇望による飲酒癖と感情的な爆発は、生涯ついに癒されることはなかったのです。ユングの無意識の概念は、ポロックの芸術を開花させるものの、彼は自身の荒れた無意識の欠損を埋め得ず、彼を一気にその終幕へと走らせることになります。

シュールリアリズムのオートマティスム

一九四〇年頃、ヨーロッパの戦火を逃れ、ブルトン、ダリ、エルンスト、タンギーらのシュールリアリストたちもアメリカに渡りました。戦後のアメリカ現代美術の誕生にとって、彼らの影響も見逃がせません。フロイトの無意識説に触発され、一九二〇年代に、ヨーロッパに登場したのがシュールリアリズムです。それは、無意識の不合理な領域に乗り出し、行きづまった近代芸術のあらたな可能性を探ろうとするものでした。オートマティズム(自動書記法)と呼ばれるのが、精神分析の自由連想をもとにした無意識の内容を浮かびあがらせる彼らの方法でした。意識のレベルでは何の用意もせず心をむなしくして、無意識の深みから立ちあがってくる脈絡の定かでないイメージをそのまま描き映そうというのです。しかし、ポロックは彼らのオートマティスムをそのまま受け入れたのではありませんでした。

ポロックのオートマティズム

ポロックのオートマティズムはシュールリアリズムの影響からではなく、絵画療法での自由連想の体験から生まれています。絵画療法を続けるうち、彼は自由連想によってイメージを描くことに不満を覚えるようになりました。集中のなかでわき上がるさまざまなイメージは、覚醒した目で見ると、色あせて、不完全で断片的な図柄の集まりでしかありません。彼は描く行為自体のもたらす高揚感と自己集中こそ、他者の介在を許さないリアルなものだと考えました。高揚感と自己集中のなかにいる時、彼は自然とつながった本来の自己であると思えるのです。その時、彼は分析を受ける都市の病者ではなく、「自分が自然だ」  と豪語するほど完全な存在でした。そして彼はついに、イメージに頼り病み衰えた近代絵画を捨て去ってしまいます。

ポロックの表現

現代では、かつて画家たちが通った自然に至る道は都市に隔てられ、見失われています。ポロックは、自然に至る迂回路道を無意識に求めます。彼は近代の合理主義に基づく方法を打ち捨て、無意識を通路として、世界の本来の姿である自然に至ろうとします。
「私の絵の源泉は無意識である。私は絵にアプローチするのにデッサンと同じやり方でする。つまり、直接の予備的な習作なしに、である」とポロックは言います。彼は自らが治療者のベッドに横たわる代わりにカンヴァスを床に寝かせます。  自分は無意識を通して自然つながっている、とする内面の緊張感だけを頼りに、彼は絵具や塗料を含んだ筆を振り、四方からそれを滴らせます。絵はすでに無意識の深層に用意されています。彼はアクション行為を通してその生命と接触を保つだけでよいのです。アクション行為に集中すれば、絵は自然に無意識から現れ出てくるのです。彼の落とす絵具の滴りが彼を触発し、さらなるアクション行為に向かわせます。彼が制作で唯一気づかうべきは、絵をさし出してくれる無意識と自分のギブ・アンド・テイクの関係を可能な限り持続することでした。

ユングの無意識

C.G.Jung

C.G.Jung

無意識を発見し、精神分析学を興したのはフロイトですが、ポロックの分析医は、当時アメリカで人気のあったユング派でした。そのため、彼が影響を受けたのはユングの無意識説でした。一時は師弟関係にあった彼らですが、その無意識説は大きな隔たりをみせています。

フロイトのいう無意識は、あくまで個人の心的体験が意識下に沈み込んだものでした。一方ユングの無意識は個人の時間を超えて広がっています。ユングによれば、無意識は太古の時代から蓄積された人類に共通する神話的な心的内容です。
その根拠はある患者が太陽に男根が見えるという妄想でした。  その妄想は古代ギリシャのパピルスに書かれた神話と一致していました。彼はそこから、人間には太古からの心的体験が意識下に沈み込んだ共通部分があると確信するのです。集合的無意識と呼ばれるのがユングの無意識です。それによれば、私たちの無意識の領域には、人類が民族や宗教をかたちづくってきた元型と呼ぶ神話的要素に満ちているのです。
この考えは私たちを一挙にロマンチックな存在にします。彼の集合的無意識説に従えば、人は自身の体験を越えた存在です。人は無意識の広がりによって、勇ましく牛を追うカウボーイでもあり得るし、太古の宗教者でもあり得えます。

ユングの論の壮大さは、大恐慌にうちひしがれたアメリカ人に恰好のロマン神話を提供しました。しかし、本来、個人の存在と社会は同一視できない矛盾した存在です。そのロマン神話は、社会と個人の誕生を同じ次元で扱う誤謬の上に成り立っていす。
ユングの誤謬はポロックのアクション行為を神秘化してしまいます。彼のアクション行為は、彼の内的世界を探るだけでなく、世界の根源をさぐるという過大な意味を負いました。ポロックは無意識から立ち上がってくるイメージを排除し、無意識の深層に広がる自然と直接交感しようと格闘します。彼は、イメージを捨て退路を断ち、後戻りのできない格闘に挑んだのです。しかしポロックのアクション行為の神秘化は、彼と現実とのギャップをさら広げていきます。

ポロックを見捨てたペギー

ポロックの才能を認め、最初の個展を開かせたのは、戦火を逃れてヨーロッパから帰国した前衛美術の収集家、ペギー ・ グッゲンハイムでした。彼女は帰国すると、一九四二年に画廊「今世紀の美術」を開き、亡命芸術家や若手の芸術家たちを積極的に彼を支援しました。

ペギー・グッゲンハイム

ペギー・グッゲンハイム

グッゲンハイムがかまえた館は前衛芸術家たちのサロンでした。彼女のまわりには、夫であったマックス. エルンスト、マルセル. デュシャンをはじめ、絶えず芸術家たちの姿がありました。
若きポロックは、世間はもとより、彼女に対してもあくまで絶対的な評価を求めました。

ポロックの飲酒と粗暴なふるまいに、グッゲンハイムはと完全に愛想をつします。「彼はワイオミングの田舎から出てくるべきでなかった。まるで罠にかかった動物のように荒れくるっている」という言葉を残し、彼女は一九四八年にアメリカを去ります。

都市の現実

アクション行為のなかでは「自分が自然だ」として、世界の根源と共鳴し神話のなかの巨人のようにふるまう彼も、高揚が去り都市の現実に戻れば酒が頼りの無力な存在でした。無意識とのギヴ. アンド. テイクの関係のなかであれほど光り輝いたアクション行為も、都市の現実のなかでは、カンヴァスと絵具(塗料)という事物との出口のない格闘でした。
ポロックは、ユングのいう無意識に世界を求め、都会の現実そのものには目を向けようとはしませんでした。

「抽象表現主義は人間と作品が等価であるといった自己告白と自己混在があり、そのことがいつも私を遠ざけさせていた」 と抽象表現主義を批判したのは、ラウシェンバーグです。
彼には、ポロックらの無意識を経由して都市から遠ざけられた自然を求る行為は、画家と表現を神秘化し同一視する不自由なものに映りました。そこでラウシェンバーグは無意識を介在させず、よりストレートに現代都市の現実を直視する表現に向かいます。
ポロックが現代都市の現実の重みに耐えきれず、自殺ともとれる自動車事故でこの世を去ったのは、ラウシェンバーグがジョーンズと出会い彼らが都市を直視する新たな芸術表現を紡ぎ出し始めた一九五六年のことでした。