「ブロード・ウェイ・ブギ・ウギ」 ピート・モンドリアン

モンドリアン

Piet Mondrian 1872-1944

1872
オランダ、アメルスフォルトに生まれる。
父は厳格なカルヴァン派、小学校の校長。
画家の叔父に絵の手ほどきを受ける。
1909
神智学協会に入会。
1911-14 39歳
 パリ滞在、フォービスムに刺激される。
1915ー6
パトロンになる神智学者スレイペルと知り合う。
1917
抽象画グループ、「ディ・スティル」に参加。
1926
キャサリン・ドライヤーが初めて彼の抽象画を買う。
1938ー9
戦火を避けロンドンに移住。
1940
戦火いよいよ激しく、ニューヨークに移住。
1942 70歳
初の個展。
1944
肺炎で死亡。

ブロード・ウェイ・ブギ・ウギ1942-43

ブロード・ウェイ・ブギ・ウギ

ブロード・ウェイ・ブギ・ウギ1942-43

黒の垂直と水平の線、三原色と白黒、灰色、これだけがモンドリアンが見つけ出した世界の本質をあらわす要素です。モンドリアンに先行して抽象化の考え方を展開していたのはキュービズムです。モンドリアンにはキュービズムのとらえた世界は物質の中心になるはずの精神が欠けているようにみえました。彼は自らの見出した、物質と精神を結ぶ基本要素を使った厳密な構成こそ、キュービズムにあらわされた、ばらばらに崩れた近代の世界観を超えて再び世界を統一的に表現するものだと信じていました。

この作品では彼の基本要素の黒の線は姿を消しています。それまでの厳格で禁欲的な構成のイメージは全く陰をひそめ、ニューヨークのヴィヴィッドな熱気に感応した楽しげで明るい画面になっています。この時点でモンドリアンは彼の造形に負わせた厳格な意味付けを捨て去り、自由で軽快な制作の楽しみを選んだに違いありません。そのために、この絵は抽象画でありながら、上空から見た市街、縦横に結ぶ道路、行き交う車、建物を連想させます。また側面図としてみれば、ビルの内部を図式化したようにも見えます。

彼の共感を呼び、かたくなな造形主義を変化させたのは、現代都市ニューヨークの肯定的なエネルギーでした。ジャズとダンスを好んだ彼は、本来異質なはずの黒人の音楽をも、良いものは良いとしてやすやすと吸収し自らのものとしてしまうこの都市の自由と熱気こそ、新たな時代の姿そのものだと確信していました。

都市こそが表現の規範

「今日の教養ある人々は、しだいに自然から離れ、その生活はますます抽象的になりつつある」

「真の芸術家は、大都市を抽象的な生活の具体化とみなす。それは自然よりも親しく、よりおおきな美観を彼に与える。(中略)建築における面や線の均衡とリズムとは、気まぐれな自然よりも、芸術家に多くのことをもたらす」ピート.モンドリン

かつてゴッホやセザンヌら近代芸術家は自然に表現の源を求めました。モンドリアンは、それらの自然を規範とする従来の絵画を悲劇的な表現と呼びました。彼によれば、現実の自然は偶然に支配され混沌とした状態にあり、本質から遠い自然の外観を再現しようとする絵画は悲劇の表現と呼ぶにふさわしいというのです。そして彼は、ニューヨークのような現代都市こそが人間の精神が自然を整序し統制した最高の表現だと言うのです。モンドリアンは、現代において、芸術は都市のあり方を手本にして成立するのだと主張したのです。この表現規範の変化が近代と現代の表現を分ける重要なポイントです。本来、近代の表現に属する彼の抽象画をここで最初に取りあげるのはその主張によっています。

晩年のニューヨーク入り

モンドリアンの表現がようやく注目されるよになったのは彼が最晩年をむかえてからでした。モンドリアンがニューヨークに渡ったのが六八才、初の個展をひらいた一九四二年には、彼は七〇歳になっていました。オランダですでに壮年の前衛的画家だった彼は、オランダに紹介されたキュービズムに衝撃を受け、故国での実績を捨てパリに出ます。しかし彼のパリ入りのタイミングはキュービズムの波に乗るにはいささか遅すぎました。彼は自らの抽象表現を新造型主義と名付け、キュービズムを超えた独自の表現をめざします。しかしその理知的な理論と作風は、ロマン主義が底流にあるフランスパリ画壇からはまったく相手にされませんでした。 彼の人生はそのまま終わるかにみえましたが、すでに高齢になった彼を再び動かしアメリカに行かせたのはヨーロッパに広がる戦火でした。
二度の大戦は近代ヨーロッパの行き詰まりであり、破綻でした。モンドリアンと同じように多くの文化人、芸術家はアメリカに亡命し、科学、芸術の中心はアメリカに移っていったのです。
戦争でヨーロッパの近代秩序の崩壊を味わった彼には、アメリカの現代都市は別天地でした。ニューヨークはヨーロッパの合理主義に代わる、超合理主義が生んだ壮大な都市空間でした。そこでは超合理主義的な科学・テクノロジーによる人工が自然と人々の生活をコントロールし、なおもエネルギッシュに増殖を続けていました。モンドリアンはその都市のエネルギーに呼応するかのように、彼の抽象絵画を完成していきました。

自然に代る現代都市

今や画家が目をこらすのは自然ではなく科学・技術の成果である現代の都市空間だとする、モンドリアンの主張を、私たちの言い方にかえれば、現代の美術表現は<都市からの疎外>に焦点を当てそこに規範を求めた表現だということになります。
現代では、自然に向かおうとする個人の前に、現代都市が立ちふさがり自然は遠ざけられています。自然を基盤に成立している都市ですが、都市の営為が自然を支配しているという仮象のうえに築かれたのが現代都市です。都市が自然を支配し、生産や経済を動かし、私たちの生活をコントロールしているのです。例えば、都市空間のなかでは自然は都市の機能を助ける一つの要素に過ぎません。公園や緑地、並木などのように、自然は人工物と同じように配置され管理される存在です。都市にあっては、自然は科学・技術によって、解析をすすめより効率よく都市の機能に貢献させるべきものであっても、そこから新たな規範を引き出すものとはみなされなくなっていました。

科学の要素還元の手法

一七世紀、それまでの古典的な世界観を打ち破り、近代の等質な時間空間をひらいたのはニュートンです。彼は、全世界を物質ととらえ、すべての物質に共通する質量の概念を考えました。彼の物理学によって、恒星の運行から小石の落下にいたる、すべての物質の運動が同じ法則のもとにあることが明らかにされました。
ニュートンが世界を物質の運動、質量とそれに働く力に還元したように、要素還元は、近代の科学・技術の基本的な方法でした。
近代以降の画家たちは、めざましい時代の変化をもたらした科学・技術のこの方法と成果を意識しない訳にはいきませんでした。私たちの言い方でいえば、<科学・技術からの疎外>です。ある者はそれを取り入れまたある者は反発し、科学・技術の世界観を超える新たな表現をめざしたのです。印象派の画家たちの要素還元は、色彩でした。彼らは対象を色彩の集合と考え、純度の高い色彩に分解してとらえようとしました。セザンヌの取った方法は、自然を円錐、球体などの基本形態に分けてとらえることでした。キュービズムはさらに認識の基本になる空間を立方体に還元し、対象ををその空間の集積だと考えます。
しかし、モンドリアンの主張するところからみれば、彼らの表現はいずれもまだ自然の再現にとらわれ、感覚の世界に縛られています。それらは、必ずしも世界を概念的に把握する度合が十分ではありませんでした。

抽象化される対象

一方、モンドリアンは、世界と自己を結ぶ本質的な要素さえ取り出せれば、自然の再現から離れ、その要素を操作構成することで自在に本質的な世界が表現できると考えました。
そこで彼は、実際の制作に還元の手法を取り入れ、対象世界と向かい合う自己から本質的要素を抽出しようと試みます。彼は対象の描写から本質的でないと考えられる部分を次々に省いていきます。同じ対象に向かいながら次の習作ではさらに不要な部分を省き、また次の習作というふうに進め、最後に残るどうしても消し去れない部分が彼と木を結ぶ本質だと彼は考えます。「花の咲くリンゴの樹」1912, に至る習作群がその試みです。木は序々に再現的な要素をそぎ落とされ、最後には辛うじて木が想像される線と色面の構成に至っています。実制作からの還元はそこまでが限度でした。

「赤い木」

「赤い木」1908

「灰色の木」

「灰色の木」1912

「花咲くりんごの木」

「花咲くりんごの木」1912

二つの対立する造形要素

彼は、対象の再現的要素を削り落とす作業から、より観念的な還元に歩を進め、事物とそれに向かう彼(精神)の「関係」をあらわす二つの対立的要素を見出します。その一つは水平と垂直の線でした。しかし、モンドリアンの取った要素還元の方法は、科学のそれというよりは、宗教のインスピレーションに近いものでした。モンドリアンは自然に向かうなかで、彼の前に広がる地平線水平線と天空と彼を結ぶ垂直線に注目し、これこそ本質的要素だと確信します。もう一つの対立要素は、原色と無彩色の対比です。原色はものが存在する状態をあらわし、灰色から黒の無彩色はものが存在しない空白をあらわす。これだけのシンプルな基本要素から成るのが彼の純粋な表現のための造形システムでした。

精神と物質の基本要素

みてきたように、モンドリアンは要素還元の方法を精神と物質の関係に適用し、物質にばかり目を奪われ破綻した西欧の近代を乗り越えようと考えました。彼は新造型主義についてまとめたノートに次のような意味のことを書いています。

<今までのあらゆる芸術は自然に追随する造形だった。自然のあり方を手本と
し、自然の形や色の構成によって間接的に本質をあらわすしかなかったのだ。
私たちの時代になって初めて、自然に頼らない本質的要素だけの造形に至った。
私たちの抽象絵画は本質的要素の構成だから、その構成自体が即世界の本質を
表現することであり、世界のイメージそのものの造形なのだ。>

カントの二元論

ここで、モンドリアンの考えの背景をみます。彼の新造型主義を支えているのは、ヨーロッパの物質と精神の二元論 です。一九世紀初頭に活躍したカントの主張によれば、私たち人間は身体という物質面と理性という精神面から成っています。身体的存在としてみれば、私たちは自然界に属し事物の因果に縛られています。そこでは、私たちは自らの感覚を通してしか世界を見ず世界の本当の姿を知ることが出来ません。感覚を通してみえる限定された物質的世界が感覚界です。カントは、私たちが本当の世界、英知界を知るには、感覚の世界と手を切り、精神的存在である理性を純化し、感覚に左右されない実践理性として働かせる以外にないと主張しました。
カントの主張に立てば、この実践理性による近代の成果のひとつが科学・技術の進化とみることができます。但し、その視点は事物の機能の解明と追究に限定されています。

モンドリアンの二元論

モンドリアンの近代絵画の批判はほぼカントの主張に沿っています。モンドリアンが絵画の再現性を切りつめ抽象絵画に至る作業はちょうど感覚を切り捨て実践理性を働かせることに当たっています。もっともモンドリアンが彼の考えの根拠にしたのは、カントの哲学そのものではなく、神智学と呼ばれる宗教的な二元論でした。
モンドリアンは、物質的な表現、宗教画さえも感覚に訴えるよからぬものとして退ける厳格なオランダのカルヴァン派の教えを受けて育ち、その後、神智学に親しんだのです。それによれば、物質の世界を秩序立てている英知の源は神であって、世界の本質を理解するために、人は神の英知を感じるように実践を積まねばならないとされていたのです。
そのことからみると、先の彼の観念的な段階に踏み込んだ還元は、宗教的な意味合い結びついたものとも受け取れます。世界をあらわす水平垂直の線は彼が信仰の対象としてきた十字架のイメージとも重なっています。

造形要素に込められた古典的意味

モンドリアンは、彼の発見した基本要素に観念的な意味を結び付け、世界を体系だてて説明しようとします。
水平線を女性=時間=ダイナミック=メロディをあらわす要素とみなし、垂直線には男性=空間=静的=ハーモニーなどの要素を対応させていきます。しかし事物の形から類推して意味づけし世界の体系を作り上げるのはかつての古典時代の方法です。彼の基本要素への意味づけはまさしくそれに他なりませんでした。
ヨーロッパ近代の破綻を乗り越えるはずの彼の造形システムは、疑似的な科学の還元の方法と、復活させた古い世界観から成っていたのです。彼がその造形によって、物質と精神の合一に至ったとしたのはあまりに性急でした。 彼は今少し精神と物質の分裂する時代の「悲劇」に耐えるべきでした。

デザイン的手法の成果

モンドリアンは憤慨するでしょうが、彼の表現に負わせた意味は有効とは言えず、みるべきはデザイン的な表現の方法です。彼の造形システムから神秘主義を除けば、彼の表現はそのまま都市の機能を追究するデザイン表現です。デザインや建築の表現では水平垂直が基本的要素なのは言わば当然でした。彼の造形システムの基本要素は、もし作家(デザイナー)が必然を感じれば任意に差し替えが可能でさまざまなヴァリエーションが想定できます。例えば、モンドリアンの水平垂直線と三原色の代わりに、「円と正方形のかたちの組み合わせと五色の色彩を用いて、世界の本質をイメージする表現を試みる」というように。私たちがそんな考えを抱くのは、彼の最晩年のブロード.ウェイ.ブギ.ウギなどの作品が、彼の主張した造形理論を超えた自由度を感じさるからです。

モンドリアンの限界

都市こそ現代の表現の規範とするモンドリアンは、今や世界の中心として活力を誇示するニューヨークを理想郷とみて、その活力に呼応したデザイン的表現を展開しました。しかし彼が焦点を当てたのは現代都市の明るく肯定的な面に限られていました。自然を嫌悪する彼の視線は機能や効率優先の都市が人々に強いる変化の暗部にまでは届かなかったのです。現代都市のもたらす疎外に目を向けなかったことが、デザイン表現に止まったモンドリアンの限界をもたらしています。もっとも戦争を逃れてアメリカに渡ったモンドリアンには、世界の守護神として働くアメリカやその活動拠点である都市を批判する余裕はなかったかも知れません。
ジャズとダンスを好み、必要物以外は物を置かず電話もないアトリエで制作を続けたモンドリアンは、一九四四年、第二次大戦の終戦を待たずに悪性の風邪をこじらせ世を去ります。戦後、ようやく、次世代の芸術家たちは現代都市の矛盾やそこで暮らす人々の疎外に焦点を当て、現代美術として展開していきます。