「独身者の泳法」(マルセル・デュシャン後編)

マルセル・デュシャン

photo by Julian Wasser

自作「大ガラス」の前で裸の美女とチェスに興じるデュシャンのパフォーマンス。彼のチェスへの熱中と他事への無関心ぶりを示している。この映像を見ると、富豪の娘との結婚がわずか二週間ばかりで破綻をきたしたことにも納得がいく。チェスへの熱中はこの芸術家の思索の持続を助け、発想のよりどころともなった。
デュシャン初の回顧展にて。カリフォルニア、パサディナ美術館 1963


photo :Collection Arturo Schwarz Milan,

photo :Collection Arturo Schwarz Milan,

1912年のデュシャン三兄弟。ジャック・ヴィヨン、マルセル・デュシャン、レイモン・デュシャン。二人の兄もそれぞれ画家、彫刻家となった。新たな時代の始まりとはいえ、二〇世紀の初頭は、まだ良家の子息が実名で前衛芸術家として活動することがはばかられるような時期でもあった。


時代の認識と芸術表現

芸術表現にふれるうえで見落としてならないのは、その表現が時代の認識の水準、世界観をどのように具体化し、またその水準をいかに押し上げようとしているかです。 二〇世紀は科学・技術の時代です。
時代の認識の水準はその科学・技術によって押し上げられていきました。 科学・技術が解明しつくせないのが私たちのこころ、即ち精神の領域です。 無論、科学・技術は私たちの精神の世界をも事物の側面からとらえ、その構造を解明していきます。
ところが、私たちの精神はその解明を繰り込み、常に疎外の状態を生み出すのです。 芸術表現は、常に疎外の状態におかれるこころ、精神の側面から世界をとらえ、個の表現として新たな世界観を具体化し提出する営みだと言うことができます。
科学・技術が先導する二〇世紀の時代認識、世界観の変化のなかでの芸術表現、ここでは特に、デュシャンのそれが、いかに時代の知の水準に関わったかをみることにします。

時代の時空性とは

ところで、時代の認識の水準、その時代のものの見方を背後から支えているのは、人々のもつ時間と空間に対する共通認識の度合いです。 時代の時間と空間にたいする共通認識の水準を時代の時空性と呼びます。
それぞれの時代の時空性の違いが見やすいのは、その宇宙観の違いです。
いま仮に、私たちと中世の人々が並んで同じ光景、例えば星のまたたく夜空を見ているとします。 両者の目に映るのは同じ光景ですが、私たちと彼らのとらえ方は個々の能力の差を超えて大きく異なっているはずです。
中世の人々にとっては、夜空は神秘の力に支配された別世界です。 彼らは星々を結ぶ形と事物の形を重ねて連想をひろげたり、あるいは自分たちの身体感覚の広がりに宇宙の構造を重ねたりして宇宙の成り立ちを理解するしかありませんでした。

私たちは彼らと同じようにその果てしないひろがりに心を動かされながら、それらが地上と同じ物理法則に従っていることをすでに知っています。
このとらえ方の違いは、私たちが彼らより優秀だという訳ではなく、それぞれの立つ時空の水準の違いによっています。私たちは中世の人々と比べると、はるかに押し上げられた現代の時空性のうえに立って同じ星空を見ています。

宇宙観の移り変わり

古典期の人々の世界のイメージは、目に見える平板な大地のひろがりをもとにしています。 その上空の天体を運行させるのは神秘的な力です。 天体を支える神秘の力は神の概念と結びつき、神秘に閉ざされた古典期の時空を形作りました。
一七世紀になるとニュートンが登場します。彼の物理学は天上の星も地上の物質と同じく質量を持ち同じ法則のもとにあることを明らかにし、古典期の神秘に閉じた時空を打ち砕きました。 彼がひらいた近代の時空では、時間空間はどこまでも等質に広がり、物質は不変の質量をもって存在しました。 その整然とした世界観のうえに近代の科学・技術が展開され、近代の文化芸術が成立しました。

アインシュタインの衝撃

さて、近代の時空を一挙に現代の時空へと押し上げたのが若きアインュタインです。 一九〇五年に彼が発表した特殊相対性理論は、近代世界の等質な時空と物質のあり方が絶対的なものでなく、ある限定された条件のもとの事象であることを明らかにします。
アインシュタインは続いて一九一五年に一般相対性理論を発表し、宇宙のあらゆる運動を相対性理論から説明したのです。 二〇世紀の現代世界は、アインシュタインの相対性理論が明らかにした相対的な時空のうえに築かれることになります。

相対性理論によれば、私たちがニュートン以来、不動の基準とみなしてきた時間、空間、事物の質量は、運動につれて変化してしまう相対的な要素です。 事物の運動が超高速のレベルになると、その運動は、外部からは、時間の経過が遅れ、運動する事物は進行方向に縮み、質量が増して観測されます。つまり、私たちのそれぞれが相対的に運動している存在だと想定すると、私たちそれぞれの世界は時間、空間、事物のあり方が一定でない、ばらばらに異なった世界として存在していることになります。 唯一、一定の速度を保つ光だけがそれらのばらばらな時空をつなぐ要素です。

アインシュタインの相対性理論は、私たちがものごとを考える基準としてきた、事象の絶対性の根拠自体をくつがえしました。 それは、科学・技術の分野に限らず、人々が築き上げてきた、哲学、思想、芸術など、すべての領域が新たな次元から見直されるべきことを告げていました。 相対性理論の登場の衝撃はまさに行き詰まりをみせていた近代の世界観を根底から揺るがし、あらゆる知の領域を走ったのです。

Albert Einstein

Albert Einstein
1879-1955

*アインシュタインの相対性理論
1905年、26才のアインシュタインは、ベルンの特許局に勤めるかたわら、光の量子仮説を発表し、続いて特殊相対性理論を発表する。世界は無名の一青年が現代の時空をひらく画期的な理論を発表したことに驚きの声をあげた。
これまで、時間は常に一定して流れ、空間は一様に広がっていると考えられていた。ところが、彼の理論によると、次のような現象が起こる。相対的に運動する物質の間では、時間の流れが異なり、空間も互いに変化して観測される。また質量も運動に伴って変化する….。
彼の相対性理論は、これまでの科学の常識を根底から覆すばかりか、その新たな次元の提示は、哲学、思想、芸術などすべての領域の再構築を促すものだった。


ニュートンの等質な空間での運動

ニュートンの等質な空間での運動

時間、空間、質量はA、Bにとって等しく 不変である。


アインシュタインの時空での高速な運動

アインシュタインの時空での高速な運動

アインシュタインの相対性原理によれば、 外部のBからはAの時間は遅れ、空間は収縮、質量は増加して観測される。またAからBを見ても同様な変化が起こる。


キュービズムの登場

相対性理論のもたらした時代の時空性の変化は、芸術の領域にも波及します。 芸術の領域で、一九一〇年代に入ってキュービズムが登場したのもその衝撃に対する感覚的な反応のひとつとみることができます。 時代の新たな時空は画家たちが長年とってきた自然の事物を観察する方法の変更を迫ります。 画家たちはより総合的な視点を提出する必要に迫られました。

キュービズムの画家たちが考えた方法は、とらえる対象を最小単位の空間に解体し、それらを画面に並列に置き、彼らの視点を相対化して表現することでした。しかし、その試みは、画家たちの見た対象の部分像をつぎはぎに並べることに終始し、近代の世界観を再構築するまでには至りませんでした。キュービズムは、近代のニュートン的な世界観の限界をあらわにする表現に終わったと言えます。

デュシャンの登場

デュシャンが活動を始めたのは、今世紀の初め一九〇二年頃からです。彼は科学・技術がもたらした二〇世紀の時空の変化にいち早く反応し、現代美術の先駆けとなる思索を展開します。 私たちはそれまでの画家たちとは全く種類の違う思索の作家の登場を目にすることになります。

「チェス棋士の肖像

「チェス棋士の肖像」1911,
108×101cm, Philadelphia
Museum of Art,
Collection Louise & Walter
Arensberg

デュシャンの実制作と思索の関係は、他の多くの画家たちのそれとは逆転しています。 画家たちは制作の手法を確立すると、その方法を繰り返し、多くのヴァリエーションを生み出そうとします。彼らが実制作の持続を第一の目標にするのに対し、デュシャンは思索を持続することを最も重要なものとします。 彼の思索と実制作の関係はちょうど科学者たちの思索と実験のそれに似ています。 デュシャンは思索が制作によって現実のかたちを結ぶと、もはや同じ手法の制作を繰り返そうとはしませんでした。彼にとっては、結果の出た<実験>を繰り返すことに意味はありませんでした。


「ソナタ」

「ソナタ」1911, 145×113cm,
Philadelphia Museum of Art,
Collection Louise &
Walter Arensberg

デュシャンが思索を実制作の上位においたのは、彼の関心が時代の知の進展にあったからです。現代という時代にあって私たちの知はどこまで世界をとらえているか?
今、私たちは有史以来の膨大な時間空間の広がりのどこに位置しているのか? 彼の思索はこれらの問いに向かってなされます。 彼にとって、芸術の意義は、その表現がいかに時代の知の水準を押し上げる行為となり得ているかにのみあったのです。
デュシャンが思索を持続する合間を埋めるために、日常生活で繰り返すことを許したのは、一九一五年、アメリカに渡ってから八年間続けられた水泳の訓練と「大ガラス」の制作以後、没頭することになるチェスでした。 彼の長い思索のあとを語るようにぽつりぽつりと置かれた数少ない実験的な制作は、その後のアメリカ現代美術の展開のための道標を置くかのようになされました。

近代絵画の徹底批判

アインシュタインの発した衝撃を表現概念の問題として真剣に受けとめ、いち早く近代芸術の世界観の再編、相対化を試みたのがデュシャンです。 彼の特筆すべき点は、さきに述べたように思索を重視し、既成の表現を決して繰り返そうとしなかったことです。
彼の初期の油絵制作は近代芸術のそれぞれの手法と表現概念の限界を調べるための実験です。
それはある表現の調査、検証が終わるとその制作は終わりというふうになされます。 デュシャンの近代絵画の検証は一九一一年頃、 早々にキュービズムに至り、彼はその限界をもたらした原因を次のように述べました。

「・・印象派が勃興して以来、視覚的な作品は網膜にとどまっている。印象派、 フォービズム、キュービズム、抽象など、いつも網膜的な絵画だ。その物理的な関心、つまり色彩の反応といったものが脳髄の反応を二の次に置いている・・」
「デュシャン語録」滝口修造
デュシャンは、近代芸術家たちが視覚の現象を追うことに終始し、時代の認識を進化させる思索にほとんど関心を払わなかったことを批判しています。

デュシャンの絵画制作

アインシュタインによって二〇世紀を画する新たな世界観が提出されたことは、デュシャンに世界の認識が進化するダイナミックなイメージを提供しました。
絶対的ともみえた近代の世界観を覆したのは、当時の権威者たちではなく、周辺にいた全く無名の若者です。 私たちのまわりのごく平凡な日常のなかでなされた思索が、古い世界観を相対化する新たな世界観を生み出しました。 デュシャンは、このことに大いに刺激され、自らの日常からあらゆる既成の見方を相対化するより高次な芸術表現の領域をつくりだすことをめざします。

「私は何事も受け入れることを拒み、あらゆる事を疑った。そう、あらゆるものを疑ったので、私は以前には存在しないもの、また以前には考えたこともなかったものを見い出さねばならなかった。 何かが頭に浮かぶと、私はそれをひっくり返してみて別の方向から見ようとした。」
「現代美術五人の巨匠」カルビン・ポプキンス、1972

デュシャンがめざしたのは、アインシュタインのひらいた新たな時空をそのまま追うことではありませんでした。 彼がアインシュタインから学んだのは、既成の見方を「ひっくり返し」新たな次元をひらくというその思索の方法でした。デュシャンは科学の見方にも属さず、また、同時に芸術の見方にも基づかず、それらの既成の見方を「ひっくり返し」相対化する新たな表現をひらくことを考えます。 そこで、彼は物質の運動を極限にまでつきつめると新たな次元がひらけるとする相対性理論のイメージを日常の運動に適用することを試みます。
相対性理論が明らかにした時空と物質の変容は、超高速の運動において生じます。しかし、理論的には、日常の世界においても超微細ながら同じ変容が起こるはずです。デュシャンは、その超微細な変容をとらえるのことが、芸術家に託された仕事だと考えます。彼が描こうとするのは、ある時空と異なる時空との衝突や、時空と時空が干渉して変容する観念的情景です。 近代の限界にあるキュービズムがそのヒントを提供していました。彼は、キュービズムの、空間を単位に分節し画面上に重ねる手法を、運動につれて変容する時空と事物を表現する方法に変換します。

「迅速な裸体の群に囲まれた王と 王妃」1912.

「迅速な裸体の群に囲まれた王と 王妃」1912.

デュシャンのとらえようとする<美>は、もはや具体的な個々の形にはなく、物体の動きによって引き起こされる変容のメカニズムをいかにとらえるかにあります。
「迅速な裸体の群に囲まれた王と王妃」1912 は彼の好んだチェス・ゲームの駒の動きにヒントを得ています。 それぞれの駒は、独自の運動の法則を持っています。 それらの運動は互いを横切り干渉し、運動の進行によってゲームの局面(時空)を一変させる複雑な動きを作り出します。

より<美的>な運動がゲームを勝利に導きます。
デュシャンは運動に伴う個々の時空と事物の変容をチェス・ゲームの駒の動きになぞらえます。
彼はチェス・ゲームに近代と現代の時空の干渉、変容を重ねてイメージしたのです。

階段を降りる裸体No.2

「階段を降りる裸体」

「階段を降りる裸体」No.21912.

「階段を降りる裸体No.2」1912 は、デュシャンが当時試みた時空の変容をあらわす絵画のうちで最も物議をかもした作品です。 彼は人物が階段を降りる動きを表現するのですが、そこには人体は不在です。
彼は、当時の未来派の試みのように、動く人体の瞬時ごとの形をひとつの画面に集めたのではなく、四次元時空における世界線の時間切断面をコンピューターでシミュレートし集積するように、人体の動きが引き起こす空間と時間の変容と人体自体の変容を観念的にとらえ集積しました。
人体の基軸を想定すると、その動きは線の移動としてあらわされます。 線の移動をある瞬時で区切るとその空間内の面としてあらわされます。
ところが、運動とともに変容する 時空と物体は、均等に規則正しく変化する面とはならず、さまざまに変化した不連続な形の面を生みます。

CGで使われる基軸だけの人物像*

彼はこの作品を二人の兄とともにパリ、アンデパンダン展に出品しようとします。 しかし、キュービスト理論家のグレーズやメッツァンジェに反キュービズム的だと非難され、作品を撤去させられます。彼らにとっては、キュービズムの理論内での表現が進歩的表現の条件でした。 確かに、キュービズムからみれば、運動と時空の変容をとらえようとするデュシャンの表現は、明らかな逸脱でした。
では一体、彼の芸術表現を退けるキュービズムの前衛性とは何なのか? 彼はこの事件を契機に徒党を組む活動に見切りをつけ、一人で表現活動を展開することを固く心に決めます。

*CGで使われる基軸だけの人物像。その動きをある時間で切断すると基軸が描く面が得られる。

アーモリー・ショウ

アメリカで初の大規模な近代美術の展覧会が、一九一三年、ニューヨークの元兵器庫で開かれたアーモリー・ショウです。 スティーグリッツによるスタジオ291 *  での啓蒙的な活動はあるものの 、 一般のアメリカ人が広く近代の芸術に接することになったのは、このアーモリー・ショウ*が最初です。

*スタジオ291
1905年から17年まで写真家スティーグリッツによって運営された。ヨーロッパで近代芸術や写真を学んだ彼は、写真はもとよりロダンやピカソらの近代芸術をアメリカに紹介する窓口をも果した。

パリでは拒否されたデュシャンの「階段を降りる裸体No.2」は、この展覧会に出品されます。 その思わせぶりなタイトルと、肝心の裸婦が見あたらない表現は、物見高いアメリカ人の関心を大いにかき立てます。
この作品が思わぬ評判を呼び、フランスでは異端の前衛でしかなかったデュシャンは「ナポレオンとサラ・ベルナールに次いでニューヨークで最も名を知られたフランス人」となります。 この作品のアーモリー・ショウへの出品で、彼はその後のアメリカでの活躍の機会を手に入れます。

*アーモリー・ショー
1913年ニューヨーク旧六九連帯兵器庫で開かれた展覧会。
ヨーロッパの近代芸術にアメリカ絵画が対抗するかたちをとって開かれた。保守的な写実絵画が主流を占めていたアメリカで、多くの人は、ヨーロッパ近代芸術を初めて目の当たりにすることになった。ヨーロッパからは、ドラクロア、アングルに始まる近代絵画の成果が網羅された出品だった。印象派のマネ、モネ、それに続くゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、スーラ、シャニック、フォーヴィズムのマティス、ドラン、マルケ、ヴィョン、デュフィー、キュービズムのピカソ、ブラック、レジェ、グレース、ピカビアらの作品が並んだ。これら近代前衛芸術に至るヨーロッパの作品は、数では千点を超えるアメリカ絵画を圧倒し、その後進性をあからさまにした。
このアーモリー・ショーで デュシャンの「階段を下りる裸婦Ⅱ」が評判を呼び、彼は一躍有名人となった。彼が出品した油絵四点はすべて買い手がついた。

スポーツカーの体感速度

「処女から花嫁への移行」、「花嫁」、それらは後に通称「大ガラス」と呼ばれる作品にまとめられますが、その着想は、一九一二年、ピカビア、アポリネールらとミュンヘンへ自動車旅行した際に得たものだたと言われています。 スピード狂のピカビアが運転するスポーツカーの猛烈なスピードは、加速された物質がその時空を変容させるという相対性理論のイメージを喚起するには充分な体感速度でした。
車の猛烈なスピードを体験したデュシャンは、エンジンのメカニズムを現代の時空の変容を象徴するものとして取り上げることを思いつきます。
エンジンは、燃料の爆発を車軸の回転運動という全く違う次元に変換する装置です。 しかし、そのメカニズムをそのまま取り上げたとしても科学・技術の礼賛でしかありません。
彼は爆発と回転運動という位相を異にした運動を統合するエンジンのメカニズムを、男女の欲望のメカニズムの隠喩とします。

フランシス・ピカビア

フランシス・ピカビア
Francis Picabia
1879-1953

*自称貴族を名乗る社交界の人。
デュシャンの友人、ヨットや車などの趣味に生き前衛芸術にいそしむ才人。デュシャンとともにチューリッヒのダダイズム運動、超現実主義の運動にも加わり、常に既成の造形概念を否定し新たな表現を求めた。
1933年、フランス文化の発展に貢献大としてレジョン・ドヌール勲章を得る。

「彼女の独身者たちに裸にされた花嫁、さえも」

「彼女の独身者たちに裸にされた花嫁、さえも」 1915-1923

「彼女の独身者たちに裸にされた花嫁、さえも」 1915-1923

一九一五年、第一次世界大戦を機に渡米に踏み切ったデュシャンは、「大ガラス」の制作に、八年の歳月を費やします。この作品は、「彼女の独身者たちに裸にされた花嫁、さえも」という意味深長な長いタイトルがつけられています。
上下二対に分かれた作品の図形は、ぴったりと合わされた二枚のガラス板に密封されています。上の部分が花嫁、下が独身者です。 デュシャンは超高速の次元での時空の変容を、日常の観念世界に当てはめ、さまざまな思索と実験的な制作を重ねています。 「大ガラス」はそれらの試みの集大成です。

彼は、それらの試みを、位相的にとらえた男性と女性の思考や感覚、営みの違い、その時空は隣接しながらも決して一致する事はない関係にあること、の隠喩として位置づけます。
相対性理論が指し示す時空と事物の変容から、私たちの日常のなかでの存在の仕方をイメージしてみると、私たちは、見かけ上は同じ時間空間に存在しているかにみえても、実は、互いに全く異なった時空にあるという見方がひらかれます。デュシャンは私たちの日常を超微細な変容の世界としてとらえ、彼の実験的な制作に隠喩の側面を負わせ、それらを作品とします。

「停止装置の網目」1914

「停止装置の網目」1914

「大ガラス」に集められたデュシャンのさまざま思索と実験的な制作は、現代美術の先駆的な試みの集大成ともなっています。それらを思いつくままにあげてみます。 先ず、 デュシャンは彼の観念的な表現空間を密閉するために、ガラス板を使うことを思いつきます。 ガラスは現代都市を象徴する素材です。かつてなら、キャンバス上に描かれたタブローは、現代都市を象徴する素材の間に密閉され宙づりにされます。

また、ガラス板は、見る人が図像に触れることを許さず、図像が位相の異なる次元にあることを示すのに好都合な素材でした。さらに、ぴったり合わせられたガラス板は、絵具を酸化させずに守る絶好の支持体でもありました。

偶然の登用

デュシャンは偶然に新たな表現領域の広がりを求めます。 彼は偶然の生むかたちを、科学・技術の必然や芸術の<美>の範囲の外にある、新たな芸術表現の可能性を秘めたものと考えます。 先の相対性理論の明らかにしたところによると、それぞれの運動は互いに異なった時空を生じさせます。つまり、時空は運動ごとに個別に存在するのです。 私たちの慣れ親しんでいる近代の時間空間の基準は、多様にあり得る時空の一つの状態を選んだに過ぎません。

「3つの基準停止装置」

「3つの基準停止装置」 3本の糸の落下(図では黒くみえる板に糸がそのまま固定されている)が描いたかたちは木型に取られ、新たな時空を定める定規とされた。

偶然とは、私たちの日常の時空と 異なる時空とが互いに接合し、重なる領域と考えられます。そこで、デュシャンは、自らがたまたま関わった偶然を基準にすえ、異なる時空の投影として表現世界を構成してみせるのです。 その試みの一つが「三つの基準停止装置」です。彼は一メートルの長さの糸三本をそれぞれ一メートルの高さから落とし、偶然にできた糸の曲線をそのままワニスで固定します。 その曲線をもとに三つの定規がつくられました。 すべての空間の基準とされるメートル原器に対して、


花嫁上部の「ピストン」

花嫁上部の「ピストン」

その曲線は偶然がとらえた異なる時空の原器という訳です。「三つの基準停止装置」は大ガラスの「九つの雄の鋳型」の位置を決定する九本の曲線、九本の毛細血管として使われます。また、デュシャンは、一メートル四方の網レースのカーテン三枚を冷暖房装置の上につり、揺れて変化する偶然のかたちを写真に撮り、花嫁上部の「換気弁、網目」の形とします。


マン・レイが撮った大ガラスの上の埃

マン・レイが撮った大ガラスの上の埃。彼はカメラのシャッターを開放にセットし、デュシャンと連れだって夕食に出かけた。

下部の独身者の「七つの濾過器」の彩色に使われたのは、制作中にたまるにまかせていた埃です。 彼は時間の経過が偶然作り出した彩色をそのままニスで固めます。 埃のつもった大ガラスのはマン・レイが撮った見事な写真に残されています。

既製品と偶然の事故

「チョコレート粉砕器」

「チョコレート粉砕器」

偶然を重視する行為の一つに、偶然見つけた既製品をそのまま芸術表現とするレディ・メイドがあげられます。レディ・メイドは、デュシャンが事物をもともとの機能から外れたところに意味を見い出し、異なる脈絡のなかに置くことによって成り立たせる表現でした。彼はルアンの菓子店のショーウィンドーで偶然見かけたチョコレート粉砕器をイメージのレディ・メイドとして取り上げます。
デュシャンは何の変哲もないお菓子の製造機械に独身者の欲望を発生させるという隠喩的な意味を与え、独身者の機械、「チョコレート粉砕器」とします。

ひびの入った「大ガラス」の部分

ひびの入った「大ガラス」の部分

デュシャンがこの観念的な表現の集大成に取り込んだ最大の偶然は、一九三一年、輸送の際、大ガラス自身が事故で粉々に割れてしまったことでした。 五年後、彼は丹念に破片を寄せ集め、さらに二枚のガラスに挟み込んで修復しました。 「ガラスはひびが入ったお陰で何倍も良い作品になった」と彼は後に語っています。

前衛芸術を支援するアメリカ人

デュシャンがアメリカで制作を続けられた条件の一つは、彼をとりまく支援者に恵まれていたことがあげられます。 アレンズバーグ夫妻は完成後の「大ガラス」を買い取る代金としてデュシャンのアトリエの費用を負担していました。 キャサリン・ドライヤーは、彼女の前衛芸術のコレクションを充実させるためソシエテ・アノニムを組織しデュシャンにその顧問を依頼していました。 一時親密だったペギー・グッゲンハイムも彼を芸術家として尊重し援助を惜しみませんでした。 この状況は彼のみに限らず、一般にアメリカ人の文化支援がまだ価値の定まらない前衛芸術にまで及んでいるのには目を見張らせるものがあります。

P.グッゲンハイム

P.グッゲンハイム

彼女は「デュシャンのお陰で私は現代美術の世界に入ることができた。」と語っている。

遺作

「遺作」

「遺作」1946-66
この扉に穴があけられている。

同じ表現を繰り返さない芸術家デュシャンにとって、芸術表現とは常に新たな領域を提示することでなければなりませんでした。彼は自らが生み出した新たな表現、例えばレディ・メイドでさえ繰り返せば趣味に落ちてしまうと、厳しく自己規制しています。彼は、芸術表現は既成の表現を超えた視点を提出していなければその意味はないとします。 それは裏返せば、新たな表現の広がりを示せなくなった芸術家はその営みを終える以外にないということになります。


遺作

遺作「(1)落ちる水(2)照明用ガスが与えられたとせよ」
電動の落ちる水のある風景をバックにしどけなく横たわる裸女がガス灯を掲げている。

デュシャンは「大ガラス」の制作を中断するように終えて以来、すでに芸術を放棄したとみなされていました。
ところが彼の死後に発表された遺作は、そのような定説をひっくり返してしまいました。彼は生前は芸術を放棄した作家の風評にあえて甘んじ、死後に遺作を公表するように周到に計画していたのです。彼は自らの人生の時間をも作品のなかに組み入れたと言うべきかも知れません。遺作はデュシャンの死後、かねて彼が計画した通りフィラデルフィア美術館に設置されました。
遺作には、またしても「(1)落ちる水(2)照明用ガスが与えられたとせよ」という長いタイトルがついています。分厚い木の扉、それは彼が見つけたレディ・メイドの扉です。観客はその扉に穿たれた穴から彼の設置した情景をのぞき見ます。

観客が目にするのは、かつて観客をとまどわせた抽象的な形態ではなく、リアルに作られ、しどけなく横たわる裸婦の姿です。観客は今度はあまりに具体的なその姿に戸惑います。

遺作は彼が展開してきた表現スタイルを鏡に映すように「ひっくり返した」表現です。
彼のアメリカでのデビュー作「階段を降りる裸婦No.2」 はタイトルが喚起する具体的なイメージを作品の抽象的な形態が押し止めるという構造を取っています。 抽象的な作品の形態と、具体的で詩的なイメージをもつタイトルとの組み合わせという表現スタイルは「大ガラス」に集大成されます。
ところが、遺作ではまったくその逆に、タイトルが抽象的な命題で、作品は具体的な形態です。
観客は今度は一転して、抽象的な観念の動きを、具体像のなかに探すことになります。 彼らは、かつての古典画を前にするのと同じように、具体的なイメージを前にし、抽象的な題名の意味するところに思いをはせます。
デュシャンは最後の作品において、自らの思索による表現の営みを古典と現代の時空を合わせ鏡とした永遠に連続する空間に置き、死後もその運動性を保つ仕掛けとしたのです。
遺作の背後には見事に人生の幕を引いたデュシャンの高笑いが響くばかりです。