「都市の事物と芸術のあいだ」ロバート・ラウシェンバーグ

ラウシェンバーグ

Robert Rauschenberg 1925-

1925
テキサス州、ポート・アーサーで生まれる。
1948 22歳
画家をめざし、パリ、アカデミー・ジュリアンに入る。
ノース・カロライナ州、ブラック・マウンテンカレッジでジョセフ・アルバースに学ぶ。その後アフリカ、イタリアを放浪する。
1951 26歳
ベティ・パーソンズ画廊で初の個展を開く。
1953 28歳
スティブル画廊で「ブラック・ペインティング」「ホワイト・ペインティング展示。「消し去られたデ・クーニング」制作。
1954 29歳
ジャスパー・ジョーンズに出会い「コンバイン」の手法を始める。
1964 39歳
ヴェネチア・ビエンナーレ国際大賞をアメリカ人で初めて受賞。

photo: RobertRauschenberg Contemporary Great masters 講談社

*ラウシェンバーグの位置
1950年代は抽象表現主義が全盛である。 画家の内面を、絵具を塗る行為とかさね合わせた、重苦しく激しい表現でなければ表現ではないという見方が画壇を支配していた。
ラウシェンバーグは敢然と抽象表現主義を批判する。彼はデ・クーニングのデッサンを文字どおり消し去ることを作品にし、抽象表現主義の重圧を象徴的にはねかえす。以後、都市の現実の事物、廃物などを芸術と組み合わせ、競わせるコンバイン・アートを追究し、ジャスパー・ジョーンズとともにネオ・ダダと呼ばれる。彼らが表現を現実の事物の領域に広げたことが、後のポップ・アートが生まれる基盤となった。

「モノグラム」

「モノグラム」

「モノグラム」1955~59 122×183×183cm
Moderna Museet, Stockholm

戦前派のモンドリアンは現代の都市空間を賛美しましたが、五〇年代に登場するラウシェンバーグのねらいは、同じ都市の表現でも、ポロックの延長上にあって、批判を含んだ、現代都市の疎外の表現です。彼をとらえたのは都市の機能から落ちこぼれた事物のリアリティでした。戦後の現代都市に身をおくラウシェンバーグは、自身の疎外の現実を都市の事物のあり方に見い出しました。

作品の台の部分は、激しいタッチの色彩とアルファベットの板などを張りこんだ抽象表現主義を思わせる芸術の空間です。かつての芸術空間はここでは一つの事物として扱われ、その上に乗せられる事物の台座でしかありません。
台座の上にすえられた「意味のない」現実の日常に属する物体は彼が古道具屋で見つけた羊の剥製とその胴体に巻き付けた古タイヤです。台座に張り付けられたアルファベットの板も彼がどこかで拾ってきたもののようです。
「私はど真ん中になにか意味のないものを置くことによって形式的なコンポジションのあどけない考え方を無視してきた」と語るラウシェンバーグは、画家が生む限られたリアリティしか持たない絵画に代え、見い出した事物のリアリティを出来るだけ保存し組み合わせることを芸術表現としました。
事物の組み合わせとそれらの上に塗られたけばけばしい色彩は、あくまでそのリアリティを強調するためのものでした。
<都市の疎外>を内面的に表現した抽象表現主義の芸術も、現実の事物の一様態としてその芸術表現の空間に収集接合されています。
既成の芸術を否定し、現実の事物を作品に登用する彼の手法は、デュシャンのレディ・メイドを思わせることから、彼はジャスパー・ジョーンズとともにネオ・ダダと呼ばれました。
しかし彼はデュシャンのレディ・メイドの定義の延長上にあるのでなく、その手法だけを採り入れています。

抽象表現主義からの離脱

現代の都市空間では、かつて画家たちに美を差し出した自然の地位は変容し、都市に組み込まれた一要素に退いています。戦後、現代美術の始まりであったポロックのアクション・ペインティングは、無意識を経由して失われた自然に至る試みでした。
ポロックの拠り所としたのが、個人の無意識が太古の時代からの心的体験の蓄積だとするユングの無意識説です。彼は絵画から描く所作(アクション)だけを取り出し、自然に至る方法としました。
しかし、個人の深層に社会の初源を重ね、あるべき世界を導こうとすることは、画家の内面に過重な意味を負わせることになり、結局画家自身がその重みに耐え切れませんでした。
抽象表現主義の双璧とされたのが、ポロックとデ・クーニングです。
デ・クーニングはフロイト的な無意識を取り、ポロックの取った無意識はユングのそれという、両者の差異はあるにせよ、ラウシェンバーグにとっては、彼らの無意識に焦点を当てた内面重視は、<都市の疎外>対する一つの表現姿勢ではあっても、都市の現実に背を向ける不自由なやり方でしかありませんでした。

「Bed 」

「Bed 」1955

<個人の内面を過剰に神聖化することは、間違いではないか?何故、無意識の迂回路を取るのか、画家は都市の現実を直視すべきではないか?> ラウシェンバーグにとって、拠り所にすべきは無意識でなく、都市のなかに立つ時の自らの現実感覚でした。

「私は現在の中にいる。私は限度はあるが、万策をつくして現在をあがめようとつとめている」* と、彼は自らが身を置く都市空間に、無意識の介在なしに直接目を向けます。時間の面から言えば、無意識をさぐる抽象表現主義は自らの過去に向かう表現です。それに対して、ラウシェンバーグは過去に遡行せずに直接「現在」をとらえようとします。

*「宮川淳著作集」ラウシェンバーグその言葉 宮川淳

自らのベッドに絵具を塗った作品。彼がベッドを使ったのは、ある朝、目覚めるやいなや猛烈な制作意欲にとらわれたがあいにく新しいキャンヴァスが手元になかったからだという。キャンヴァスに絵具を塗れば今まで通りの絵だが、ベッドに絵具を塗るのははたして絵を描くことになるのだろうか?その行為は暴力的でベッドは異様な迫力を醸し出した。

デ・クーニングを消し去るラウシェンバーグ

「消し去られた デ・クーニング」

「消し去られた
デ・クーニング」 1953

五〇年代は抽象表現主義の全盛時代でした。
画面上に作り出される様態が直接画家の精神の表現でありそれこそ至高の表現だとする抽象表現主義の考え方当時のアート・シーンを支配しちょうど時代の超自我のように画家たちの上にのしかかっていました。
一九五三年、そのことに異を唱えるラウシェンバーグは、その重圧を象徴的に解消することを思い立ち、直ちに実行に移しました。

それは抽象表現主義の大家である、デ・クーニングの作品を文字どおり消し去ることを自らの表現とすることでした。彼はデ・クーニングに面会を求め、意図を説明し彼のデッサンを譲り受けます。
精神分析では、男児が成人するにあたって、立ちふさがる父の存在を乗り越えるため、父を象徴的儀式的に「殺す」行為が必要だとされています。
若きラウシェンバーグにデッサンを与えたデ・クーニングは、乗り越えられるべき父親の役を引き受けたことになります。デッサンを受け取ったラウシェンバーグは、早速アトリエに持ち帰り、さまざまな消しゴムで丁寧にそれを消し去りました。
「デッサンは硬い線で描かれ、その上すべすべしていたので、いろんな消しゴムを使って苦労して仕事をしなければならなかった。
中略..
私はそれが消し去るという技術によって創造された正統な芸術作品だと思った。問題(彼は消すことで芸術作品を創ってみたいという思いにとりつかれていた..引用者)はこうして解決し、私は二度とくり返さなかった」
「現代美術五人の巨匠」 カール・ホプキンス 1972,美術出版社

この象徴的な「父親殺し」を終えたラウシェンバーグは、抽象表現主義の重圧から自らを解放しました。彼は既成の芸術の否定にエネルギーを費やすことを終え、自己の現実感覚を頼りに新たな表現を展開していきました。

機能から疎外された事物

「私は現在のなかにいる。私は限度はあるが、万策をつくして現在をあがめようとしている」とコメントするラウシェンバーグは、都市の「現在」をどのように見ていたのでしょうか?
「テクノロジーはただひとつの時間しかもたない。それは<現在>である」
とは批評家宮川淳氏の言葉です。しかしラウシェンバーグは宮川氏の言う科学・技術の<現在>をあがめようというのではありませんでした。

「….私はある区画に四〇階だてのビルがあるかと思えば、そのとなりに小さな掘立小屋があるといった都会にいることにエキサイトメントを感じたのである。
そこに は田舎では見出せないような事物のこういった非合理な併存がある」
「現代美術五人の巨匠」 カール・ホプキンス 1972,美術出版社

科学・技術による事物の高機能化がもたらした現代都市ですが、都市の増殖の過程は、事物のオーダーの絶え間ない組み替えです。高機能を誇った事物でさえ、たちまち無用の長物と化し、用途を終えた事物の大半はすぐさま廃棄物とされていきます。

「Signs」

「Signs」1970

しかし現実の事物は機能から外れればすぐ消滅するわけではありません。事物はそれぞれの固有の時間のなかにあり、都市のオーダーの変化に抵抗するように、変わらず存在し続け徐々に消滅に向かいます。
ラウシェンバーグは、都市の大規模で高速な<現在>という時間の流れと、そこからこぼれ落ちながら存在する事物の固有の時間とのせめぎ合いに「現在」のリアリティを見ました。
高速な都市の<現在>という時間とそれぞれの事物の固有の時間の「非合理な併存」こそラウシェンバーグにエキサイトメントを感じさせた「現在」でした。

抽象表現主義の到達地点

ラウシェンバーグの直接事物に向かう視線は、実は、すでに抽象表現主義に用意されていました。
ポロックは「自分が自然だ」として<都市の疎外>を絵の具とカンバスという事物にぶつけました。その試みを、無意識の視点を離れ、現実面からみれば、物質と精神の対決という様相を帯びています。
ポロックの絵画は、精神の内面が絵画として物質に表現される限界値を示していました。絵画の表現性をつきつめた先には物質としての世界が広がっていました。
つまり、抽象表現主義の画家たちが至った地点が、古典から近代へと受け継がれてきた絵画の終点であり、古典的な芸術表現の終着点でした。それ以後の現代美術は、科学・技術が制御する現代都市の時間空間のなかで失われた芸術の意味を問うことがその内容となります。

現代美術の領域

ポロックの表現によって、絵画の終点、古典的な芸術表現の終着点がすでに示されてしまいました。
次世代の作家たちがなおも表現を続けるには、都市のなかでリアリティをなくした絵の具とカンバスに代わる新たな領域を見つけることが必要でした。
「世界がひとつの巨大な絵画であると考えない理由はない」*と言うラウシェンバーグは、現実の事物の世界そのものが失われた絵画に代わる領域だと主張しました。ラウシェンバーグをはじめとして、次世代の作家たちは次々と都市の事物に表現の対象や素材を見い出していきます。
ポップアーティストたちは大量生産される商品や広告を主題に、ミニマリストたちは工業製品を素材として選びました。ハプニングの作家たちは、日常の全域にまで表現の枠を広げました。
現代芸術が成立する本来の目的は、失われた芸術のあり方を<都市の疎外>から問うことにありました。しかしそれらは、新たな手法や表現の発見による、単なる現代美術という新領域への移行としてとらえられていくことになります。
*「宮川淳著作集 」ラウシェンバーグその言葉 宮川淳

芸術と事物のコンバイン

「First Landing Jump 」

「First Landing Jump 」
1961,226.3×182.8×22.5cm,
The Museum of Modern
Art,New York.

彼の事物と芸術のいかにも唐突で有無を言わせぬ接合はコンバインと呼ばれました。彼のコンバインの手法は、抽象表現主義が生み出した芸術空間と現実の事物を直接接合するというものでした。コンバインの組み合わせの唐突さは、彼に言わせれば、現実の都市のリアリティそのものです。

「….絵画は芸術と生との両方に関係する、どちらもつくられることができない。(私は両者のギャップの間で行為しようと試みる)」
「宮川淳著作集 」ラウシェンバーグその言葉 宮川淳

かつてシュールリアリストたちは唐突な事物の組み合わせに美の可能性をさぐりましたが、今や、現代都市に見る事物の組み合わせの唐突さ自体が、画家の意図を上回るリアリティを持っていました。
それに気づいた画家に残されていたのは、ただそれらを取り出すことだけでした。

「解剖台の上のミシンとこうもり傘の出会いほど美しいものはない」
シュールリアリズムの事物の唐突な組み合わせの典型を示す、詩人ロート・レアモンの一節。

ラウシェンバーグの表現

ラウシェンバーグの試みた<都市の疎外>の表現は、事物に見る疎外を事物自体の表現によってなすという矛盾のなかにあります。その方法が形式化すれば、<都市の疎外>の表現は次第に差異をなくし、賛美の表現と変わるところのないものになります。
現代芸術の先達であるデュシャンは同じ表現を繰り返さないことでそれを避け、表現される新たな観念を際だたせていました。一方、ラウシェンバーグは、浜辺で石を集める子どもの無邪気さで、次々と都市の廃品、不要物を収集し、芸術空間と接合し作品とするのです。彼は自らの都市のリアリティの収集作業に満足し、次第に都市の賛美との差異を無くしていきます。

*「世界は巨大なひとつの絵画だ」(ラウシェンバーグ)
「彼はアクション・ペインティングの油彩と日常の雑多な事物とを同一画面に並置することによって等式化し、作品の非完結性を現実そのものの非完結性にスイッチする。こうして作品は日常の環境に無限に近づき、あるいは拡大し、こうしてもはや「世界がひとつの巨大な絵画であると考えない理由はない」ことになる」 
「宮川淳著作集 」ラウシェンバーグその言葉 宮川淳

「私は石鹸箱、鏡、コーラのビンといったものを醜いと考える人たちをほんとうに気の毒だとおもう。何故なら、彼らは一日中そうしたものに取り囲まれているので、惨めな思いをしているに違いないからだ」「宮川淳著作集 」ラウシェンバーグその言葉 宮川淳

この発言では、<都市の疎外>としてとらえられていたはずの事物のリアリティはかつての芸術の美に代わるべき、都市の情感を湛える美的なものとして考えられています。
同様に、「世界がひとつの巨大な絵画であると考えない理由はない」という先に取り上げた彼のコメントは、都市の批判から出発した彼の表現が、完全にその賛美との差異をなくしたことを物語っています。
皮肉なことに、あるいは当然のことに、都市の賛美として定型化し時代に対する批判力を失ったたラウシェンバーグの表現は、アメリカ現代美術を代表するものとして評価を得ていきます。
彼がアメリカ人として初めてヴェネティア・ビエンナーレで大賞を受賞したのは一九六四年のことでした。