印象派の登場モネ

Claude Manet 1840-19261899, by Paul Nadar 「パリの肖像画」ナダール写真集より

Claude Manet
1840-19261899,
by Paul Nadar
「パリの肖像画」ナダール写真集より

  • 一八七四年の第一回印象派展
  • カラー写真の登場
  • 色彩の強度を上げるための色彩理論
  • 芸術の自立的発展小林秀雄氏
  • 近代の時空性への対処としての印象派
  • 不可視の世界を見ようとするモネ
  • 映像化からの逸脱モネの表現性
  • ふたたび<絵画の映像化>とは
  • クールベの映像化
  • マネの映像化 モネの脱映像化
  • 科学の達成と画家の感覚

 

一八七四年の第一回印象派展

ナダールのスタジオ 鋳鉄製のアーチは今も残る。 「写真の歴史」エアロン・シャーフ」PARCO出版1971より

ナダールのスタジオ
鋳鉄製のアーチは今も残る。
「写真の歴史」エアロン・シャーフ」PARCO出版1971より

一八七四年に最初の印象派展覧会が開かれたのは、肖像写真の第一人者ナダールのスタジオでした。パリに開店していた多くの写真館のなかでも、グラン.ブールヴァル(パリ大通り)に面するキャプシーヌ大通り35番地にあった彼のスタジオは名士の社交場であり、当時の文化の先端に位置していました。
印象派をパリに紹介したナダールのスタジオの役割は、ちょうど二〇世紀のはじめにアメリカに近代芸術を紹介したスティーグリッツのスタジオ291を思い起こさせます。Claude Monet


「Impression Sunrise」 1873 Claude Monet

「Impression Sunrise」
1873 Claude Monet

モネの<夕日の印象>1872 にはじまる印象派の登場は、私たちが絵画の映像化を通してみてきた、絵画の近代の時空への対峙がさらに進んだ段階にはいったことを示しています。写真映像の高度な再現性をつきつけられてきた画家たちは、まだ画家たちの聖域であった色彩の表現に活路を見いだそうとします。画家たちは色彩を成立させる光学理論を取り入れ、彼らの占有する色彩の表現を強化し近代の時空性に対抗しようとするのです。また一方の写真も、現実の色彩を再現するべくさまざまな研究が重ねられていました。

カラー写真の登場

ルイ.リュミエールによるカラー 写真 1907頃

ルイ.リュミエールによるカラー
写真 1907頃

写真のカラー化の研究は、一八六一年にデュコ.デュ.オーロンによるオートクローム法、マックスウェルによる三色写真法など、理論的には可能だという研究が発表されました。その後オートクローム法を実用化したリュミエール兄弟が一九〇七年にカラー写真「オートクローム」を市販しています。これによって写真の瞬時の映像に色彩が加わりました。

画家の感覚の作業に占有されてきた色彩の再現もテクノロジーの手によってあらたな広がりをもつようになったのです。テクノロジーの光学理論の現実化は、カラー写真の完成、また印刷技術によるカラー印刷、その後映画のカラー化、テレビのカラー映像につながっていきます。
オーギュスト、ルイのリュミエール兄弟の父、アントアーヌ.リュミエールは、肖像画家でしたが当時市販されたダゲレオタイプのカメラを手に入れ肖像写真家に転向したという経歴の持ち主でした。わずか一四才の息子のルイは、コロディオン湿板を使う父の仕事を手伝いながら、当時発明された臭化銀ゼラチンを使う乾板の改良を思い立ちました。溶液が乾かぬうちに撮影しなければならない湿板とちがい、乾板は便利な方法でしたが、まだ感度が悪く露光に時間がかかっていたのです。改良を重ねた彼は「エチケット.ブルー」と名付けた乾板感光材の製品化に成功したのです。その後、彼ら兄弟が開発に取り組んでいたのがカラー写真の「オートクローム」でした。

色彩の強度を上げるための色彩理論

モネは光学理論を援用して色彩の強度をあげることで映像に対抗するリアリティを得ようと試みました。モネの光学理論を取り入れる試みは人の生身の感覚と絵具によって、いわば素手でテクノロジーの領域に挑もむようなものでした。
人間の視覚は光学理論の解明によってその機能的限界をあからさまにされてしまいました。人の目はすべての範囲の光線をとらえる力はなく、またそれぞれの色のスペクトルを分離して見る能力にも恵まれてはいませんでした。
しかしその限られた能力しかもたない視覚に依拠していた画家は、その限界に感覚的に対峙しより全面的に世界に向かおうとします。しかもモネの営為は光学理論に基づいて視覚混合などのあらたな画風を生みだすことが最終目的でなく、むしろ光学理論を乗りこえた地平へふたたび感覚を連れ出すことをめざしていました。
感覚の限界を感覚のあらたな姿勢で打ち破る…..。そのような分の悪い戦いを強いられていたのが印象派をはじめとする近代の画家たちでした。

芸術の自立した発展を主張する小林秀雄氏

小林秀雄は、彼の著書「近代絵画」で、「芸術は時代の子であるかあら、印象派の運動も、その時代の光や色に関する分析的な学問の進歩というものに照応しているわけだが、科学が直接に芸術家の眼を開くという様な事はない」と述べています。
小林氏は、芸術をあくまで芸術家の感覚によって芸術の内部でのみ自立的に進展していくものとしてとらえています。
小林氏は、ニュートン、ホイヘンスによる光学理論の発見は、印象主義が現れるより二百年も前になされており、「画家の方では、太陽に直射された風景を描こうなどとは夢にも考えていなかったのだから、折角の発見も、画家には一向縁のないものであった」と述べています。
「どんな芸術も、根本では、自然に順応し、自然を模倣する他ない」として自然の至上性を信奉する小林氏は、あくまで画家の自然への関心の高まりが印象派を生んだと主張しています。
彼によれば、モネが影響を受けたのはターナーの傑作であり、少年の頃見たル、アーブルの海であり、青年期に軍隊生活を送ったアルジェリアの空です。ル、アーブルやアルジェリアの自然が「画家の自然への愛情の新しい形式の目覚め」を招いたというのです。
しかし彼の信奉する自然は、そのはるか以前からあったのですから、自然が画家の感覚を開くのをモネの時代まで待たねばならなかったのは何故なのかと、半畳をいれたくなります。

近代の時空性への対処として登場した印象派

見てきたように、私たちのかんがえでは、印象派の登場は時代の時空の高度化によっています。
近代の時空性が産業の発達によって写真技術という形に具体化されたこと。写真が実際に人々の目にふれるようになるまで社会に浸透し、時代の時空性を押し上げたことが印象派を生む要因です。
カラー写真の登場によって、印象派の画家たちは、自らの視覚を頼りに自然と向き合うことでさらに絵画の時空性を高度化させる必要にせまられました。

不可視の世界を見ようとするモネ

モネの営為は<絵画の映像化>の観点からみれば、色彩を光の波長というより微小な時間の差異が生む構造を、あくまで視覚という人間の感覚のうちにとらえきろうとすることです。
モネにとっては、眼にうつる光景は彼がめざす不可視の世界の一部がたまたま映りこんだものに過ぎません。
色彩理論からも知れるように、光全体からみれば人間の視覚のとらえる光の範囲は偏っており、またその光線も人の目には それぞれを個々に分離しては見られません。

「睡蓮、水の習作、朝」1914~1918 部分

「睡蓮、水の習作、朝」1914~1918 部分

光、色彩の不可視の瞬時をとらえようとするモネは、実像と虚像がともにあっていり混じる水辺の光線のゆらめきにそれを求めて「睡蓮」に向かいました。
実像虚像の入り乱れる水辺の光のゆらめきの世界が、彼には不可視の瞬時への入口とみえたのです。

映像化からの逸脱モネの表現性

モネの「水蓮」では色彩が強化されていくにつれそれと引きかえに対象の再現性が消去されていきます。対象の再現性を強化するために導入されたはずの光学理論は、色彩を強めるための便法にすぎなくなっています。画家は、対象を指示することから次第に離れて、色彩そのものを指示するようになる過程にいると見るべきかも知れません。
しかしマネ自身は対象の再現にまつわる領域から離れるつもりは毛頭なく、色彩はあくまで対象あっての色彩でした。
彼の営為は、対象にまつわる色彩の現象を指示しようとして難渋しているようにみえます。難渋しながら対象の再現にまつわる領域に過剰にためこまれた色彩が表現性を高めているのです。
モネの絵画は、対象の指示に向かわず対象をとりまく光の現象を前にして滞留するような過剰な色彩の表現です。
そこにあるのはマネの生みだしたような映像的な瞬時ではなく、モネが対象を見ている時間経過とシンクロするある持続した現実時間の流れです。
池のうえの蓮にふりそそぐ光の具合はふと気がつけば変わってしまっていますが、自然はその変化をもちこたえようとするかのように、画家にその光景をさしだています。画家は理論としてはより微小な時間のうちの変化をもとめながら、実際は光の現象の変化のなかの持続ををとらえる(とらわれる)のです。そこが難渋の原因であり、また致し方のない結果でした。

ふたたび<絵画の映像化>とは

ここまで、近代初期の画家の営為を<絵画の映像化>の側面からみてきました。
そこからみると、彼らの営為は絵画の古い時空性に写真映像の高度な時空性を導入して再編し、再び絵画を至上の地位に押し上げようとすることだと理解できます。 ここでもう一度その意味を問い直してみます。

クールベの映像化

クールベは写真映像の第一の特徴である均質な再現性を絵画に取り入れようとしました。彼は写真映像に対峙し、対象の克明な描写とその対象に象徴的な意味を負わせることによって、時代のリアリティから遠のきつつある古典絵画の再構築を試みたのでした。
対象世界そのままを目にするような均質で鮮明な写真映像の登場は私たちの視覚作用のあいまいさをあらためて浮き彫りにしました。写真映像がレンズにうつる対象のすべての部分を均一に映し出すのに比べ、ある瞬間に私たちの視覚にとらえられた像は、私たちが認識していたようには均質でも鮮明でもなかったのです。私たちの眼は受容-了解のプロセスを経た要素だけを視覚像として認識しており、眼に映るすべてを均一に見てはいません。
写真映像の出現は、そのような視覚作用に基づいて生み出されてきた絵画の図像の不均一で限定されたリアリティの限界を一挙に露呈しました。
クールベの試みにみるように、絵画の図像をより綿密化することでは写真の均質な再現力によるリアリティを凌駕する領域をひらくには至りませんでした。
また描かれる対象に世界や存在に関する象徴的で重大な意味を負わせることは、近代の時空の高度化の方向とはむしろ逆行するものでした。
映像的にとらえた世界では、偏在する対象は刻々と姿を変え、その意味づけは彼の図像のように重々しく固定化されるものではありませんでした。
すでに世界の時空性は彼が固執する古典絵画の図像にはとらえきれないほど高度化を遂げていました。

マネの映像化

マネは写真のもうひとつの特性である、瞬時をとらえ映像化する能力に対抗しました。写真がとらえる 瞬時を絵画によっても表現しようとしたのです。
従来、絵画は対象に対する認識を入念に積み重ねることによって言わば永遠の時間を表現することをめざしていましたが、マネは対象の図像を瞬時に向け、あたかも瞬時の像であるかのように積み重ねようとしました。
彼は絵画に表現される時間を永遠から瞬時へとまったく逆の方向に進めたのです。クールベによって言わば永遠の時間の限界値を示された絵画は、ここに至って方向を百八十度転換し大きく変容しています。
絵画は瞬間的な視覚の認識作用をより意識した構造をとろうとします。
マネは私たちがある認識を得る瞬間、あるいは対象にある感銘を覚える瞬間、もっと言えば意味にからめ取られる以前の視覚像の領域を絵画化しようとしています。図像は負わされていた象徴的な意味あいを捨て、その分軽くなり、現実の視覚のありかたに近づいていきました。
言うまでもなく、現実の対象はあらかじめ意味が定まっているのでなく、私たちの認識行為によって意味をもつのです。マネは意味を結ぶ瞬間の像あるいは意味に結びつく一瞬前の像にリアリティを見いだしていました。そしてそのような瞬時のあり方こそ、写真によってもたらされたあらたなリアリティでした。

モネの脱映像化

マネが人間の視覚にかかわる時間の一瞬を切りとったような画像を生むことをめざしたとすれば、モネはより微小な色彩の時間をとらえようとしたと言うことができます。モネは色彩理論の導入によって、マネの追いかけた映像的な瞬時をよりつきつめようと試みたのです。
絵画の対象にこめられる意味はますます少なくなり、なんの変哲もない風景が対象に選ばれるようになりました。しかし、光の波長の差異を生む、より微細な色彩の瞬時をとらえようとする彼の試みは、人間の知覚域の限界とそのプリミティブな方法によって変節してしまいます。画家の感覚による色彩のタッチの加算という方法は光学理論に挑戦するにはあまりにも素朴なものでした。
彼の営為は瞬時の追求から離れ、移ろいゆく光の現象にまつわる色彩の遊戯としての図像をうみだしました。
今日、私たちはテクノロジィが達成したカラー写真、色分解による多色刷り印刷や三原色の微細な光の点からなるカラーテレビの図像にかこまれ、彼の悪戦苦闘をこえてはるかに高度な映像世界の地平にいます。その私たちには見やすいのですが、彼の当時の挑戦的な試みは、むしろ恣意的な色の遊びとうつります。
「モネは単なる目に過ぎない。しかし何とすばらしい目だろう」と言ったのはセザンヌですが、水蓮に向かうモネは、感覚の強度をあげて対象世界の不可視の領域をかいま見ることが、新たな時空への唯一の突破口だとみていました。