2012 公開講座「やさしい美術講座 古典・近代・現代」 資料-1 古典・近代

2012 公開講座「やさしい美術講座 古典・近代・現代」
― 現代美術の誕生と発展 ―
資料-1 古典・近代

 ここでは、現代美術についての理解を深めることをめざしたい。 そのためにまず、古典、近代芸術、それぞれの時代の表現の内実と成立した背景を概括し、現代美術の生まれる経緯を明らかにしたい。さらに、現代美術では20世紀アメリカ現代美術を主題にすえ、それぞれの作家の営為を解析しながら現代の表現の時空がどのように進展してきたかを明らかにしたい。

Ⅰ.古典芸術

1.      ルネサンス期の遠近法の変遷

1)      グリッドによる遠近法

西洋古典絵画の特徴は現実と見間違うようなリアルな写実性である。従って、古典絵画にはダ・ビンチやデューラーのような精緻なデッサン力が不可欠であった。
デューラーの木版画「測定教義」1527頃がグリッドを通して対象を正確にとらえる遠近法の方法を示している。

2)遠近法による神学的世界観のマッピング

古典絵画の写実性は、キリスト教の神学的世界観を現実のそのもののようにビジュアル化する使命を担っていた。したがって、遠近法は現実の秩序の像に神の秩序をマッピングする方法としてあったといえるだろう。先のデューラーの説明図になぞらえていえば、画家は、グリッド上で現実の世界の像に神学的世界観をぴったりと重ね合わせる。古典絵画の「神業」のリアリズムの秘密は、そこにマッピングされる神学的世界観の絶対的なあり方が握っていたとかんがえられる。

3)遠近法を適用した表現

パオロ・ウッチェルロ(1397-1475)の「サンロマーノの戦い」1450 では、遠近法は戦闘の情景に適用され、神の加護を受けた軍の威信の表現に敷衍されている。闘いで投げ捨てられた槍さえもが画面消失点に向って並べられ、彼の遠近法への過剰な傾倒ぶりが伺える。
ウッチェルロは、遠近法を絶対的な方法とみて、描くべき事象(ここでは、戦闘の情景)のすべてを落とし込もうと苦心している。しかし、一つの方法が世界の全容を映しだすことはあり得ない。画家の意図に反し画面はぎこちなさが目立つ。

4)消失点の設定方法により神学的世界を相対化する試み

ダ・ビンチ(1452-1519)は世界をとらえる科学的方法として遠近法を徹底利用する。ところが、彼は消失点を画像の中心であるキリストの額から微妙にずらし、こめかみあたりの位置にすえる。消失点のずらしは、彼が、遠近法が絶対的な方法ではないとみていることを示すとともに、神学的な世界観が絶対的なものでないとの認識をひそかに示しているともみられる。その結果、画面はキリストさえもこの情景のうちの一存在であり、現実に翻弄される人間的な存在というリアルな意味を帯びる。

2.バロック絵画

1)光の効果による異なる空間の重層化 ベラスケスの表現

17世紀バロック期の芸術の頂点の一つがディエゴ・ベラスケス(1599-1660)の絵画である。この画面では、光の効果によって、現実の空間と神の存在する空間の重層化が図られ、現実の群衆と神が同一空間に存在する光景が生みだされている。
本来、位相が異なり、離反したまま併置された現実世界と神的世界をつなぎ包みこむのは、黄昏の光を思わせる柔らかな光である。画家はさらにバッコスである若者の肩に基本光を崩さぬ程度のやや明るい光を当て、彼が別次元の存在であることをさりげなく強調している。この画面には、旧来の神学的世界観を維持しながらも、現実的な世界認識を確得した当時の時代意識の変化が反映されている。

2)光の効果を強めるレンブラント

バロック期のドラマチックな光と闇の表現を生み出した一人がレンブラントである。
「夜警」1642では、画家の光の操作はベラスケスのそれよりもさらに強められ、中央部の人物と背後の少女は光を浴びて浮き上がるものの、周囲の大半の人物は陰に沈みこんでいる。ここにみる光の操作には、近代の萌芽を含む時代にあって、より自由な自己表現を求める画家の意識の高まりがあらわれている。
だが、隊員たちそれぞれの雄姿が克明に描かれることを期待していたアムステルダム火縄銃手隊の面々には、光の表現に突き進む画家の意図は理解できず、この絵の出来に散々な不評を投げかけたという。

Ⅱ. 近代絵画

1.古典絵画の終焉

1)新古典主義の抵抗 アングル

 甘美な貴族趣味を満たすことに終始したロココ美術は、1789年のフランス革命によって事実上その命運を絶たれる。あらたに美の権威を担うのが新古典主義絵画である。ダビッド、アングルらは甘美な貴族趣味を満たすことに終始したロココ美術を批判し、理想の美を追うギリシャ・ローマ芸術を再び規範にすえ、近代の潮流の中で見失われつつある古典絵画の流れを受け継ぎ再構築することをめざす。
アングルは冷徹な写実の手法で宗教画、歴史画、肖像画に真迫のリアリティを追究し、当時の権威者ナポレオンや歴史的人物ホメロスなどを描く。だが、絵画が時代あらたなリアリティに遅れをとりつつある感は否めなかった。政治体制の変転する中、時の権威を描く絵画の役割は過去のものとなる。

2)ドラマチックな古典の主題に代えて民衆を描くドラクロワ

ロマン派のドラクロワは人間本来の自由を求める心情をこめて神話や歴史的事件、神話などの劇的な場面を描く。
1830年、7月革命が起こると、彼は旧体制に反対してたちあがる民衆の姿を古典の重厚な手法でドラマチックに描いた。鮮烈な色彩効果を駆使したドラクロワの表現は、高まる近代自我意識の表現として、古典絵画の枠組みをも揺るがすことになった。

2.写真の登場

1839年、ダゲレオタイプカメラが市販され、写真が一気に普及する。いったん写真のリアリティを知った人々の目には、画家が描いた絵画の空間はいかにも絵空事に見えてしまう。
写真映像のリアリティはデッサンの名手アングルにも脅威だった。「…私たちのうち誰が、いったいこれほどの正確さで描けるだろう….このモデルの繊細なことはどうだ…写真とはなんと驚嘆すべきものだろう。だがこんなことは、おおっぴらに言うことじゃない。」
アングルは一八四六年には写真を不正な競合業種として禁止するよう訴えを起こすが、近代科学・技術の潮流は押しとどめようもなかった。

3.政治動乱のうちからうまれる近代絵画

1)写実主義 天使は見えないので描かない クールベ

 クールベの写実主義によって近代絵画は始まる。彼は時の権威者の肖像や神話世界を描く新古典主義に真っ向から対立し、労働者の姿や自然の風景などを主題にすえる。流動する時代にあって、クールベは民衆の側に立つ芸術をうちたてようとする。
彼は時に写真を下絵にとり、新古典主義、ロマン主義絵画を真迫性によってうわまわる表現をめざす。彼の画面は過剰ともみえる重厚さに満ちている。

2)古典絵画の<映像化> マネ

ゴヤ、ベラスケスの表現にあらたな絵画の突破口を探っていた若き画家マネは、写真映像に時代のリアリティを見た。現実の情景の一瞬を切り取る写真の映像は画家の認識を超えて現実そのものを鮮烈に映し出していた。マネは、写真映像が指し示す現実世界を絵画によってさらに明確に表現することをめざす。彼はいわば、古典絵画の<映像化>に向かうことになる。
「草上の昼食」は、「まるで静物のように即物的に人物を扱う」、とのゾラの言葉をはじめとする酷評にさらされる。
当時の人々にショックを与えたマネの表現も、写真やメディア映像を見なれた私たちには無難な表現に見えるが、アングル表現と比べてみるとその差異は明らかである。
アングルの理想化された裸体は、可能な限り滑らかに描かれている。人体のデフォルメや、のっぺりとした肌の質感は逆に世俗的な表現ともみえる。
一方、マネの「草上」(前出)は現実の光のなかに実在する人物のリアリティを感じさせる。対象の美化や偶像化はされず、寓意をこめる古典の慣例も削られ、その分だけ表現は軽やかなスナップ写真風になっている。

3)印象派の登場 モネ

印象派の出発点とされるモネの「印象・日の出」1872は3万人の市民が虐殺されたパリコミューンの翌年、動乱の生々しさが消えやらぬ時期の制作である。
写真に対抗して、写実描写を超える表現を求める画家は、聖域として残る色彩に活路を見いだす。その背後には、色彩をとらえた科学の潮流がある。(ヤングとヘルムホルツの色彩三色説、ゲーテの色彩論1810、ヤングとフレネル光の波動説など)
「モネは単なる目に過ぎない。しかし何とすばらしい目だろう」とセザンヌがいうように、モネは、マネの求めた写真映像の瞬時の先に、光の表現を求め戸外の風景に向かう。しかし、彼が時の経緯とともに変転する色彩を追うにつれて、対象の形は色彩のタッチの集積の中に消えて行ってしまう。人間の感性の作業に色彩理論の方法を適用することには限界があった。

4)自然への現象学的アプローチ セザンヌ

印象派の光の追究に限界をみたセザンヌは、近代科学の理論の援用を捨て、感性を無垢な状態に戻し、ふたたび自然に向かい合う。それは、いわば、現象学でいう還元である。「理念の衣」、既成概念から対象を見るのでなく、「生きられている世界(le monde vecu)」に立ち戻り、生のままの世界を観察することから出発しようというのである。

時間の集積セザンヌのタッチ

セザンヌの「リンゴと瓶と椅子の背のある静物」をみると、連続写真を重ね焼きしたように多くの瞬時の  映像が重なっているようにみえる。彼は対象を観察した結果を、従来のように、即ひとつの形態にまとめ上 げるのでなく、観察した時点時点での線、微細にずれる個々のタッチを等価な世界の構成要素とみなして置  けるかぎり画面に置き続ける。このような対象をとらえる作業には果てしがない。
無垢な状態で対象をとらえようとする結果、セザンヌの生みだしたあらたな絵画は持続する時間の表現となった。こうしたセザンヌの表現を背後で促すのは、映画によって持続する時間の映像表現を手にした時代の認識の高まりだといえる。しかし、画面には微細に震動する輪郭や形が集積されるばかりだった。
セザンヌはやむなく、基本形態円柱、円錐、球体を導入する。これによって対象の形態は消失を免れるものの、得られる像は表情を失いぎこちなく硬直する。彼は、さらに視点の重層化も試みている。
セザンヌの限界は、増殖するタッチを基点形態に押しと止めたことから生じた。彼の絵画は古典絵画の固定的な視点に言わば震動や移動を加えた地点にとどまった。

5)キュビスムの複合空間 ピカソ

セザンヌがタッチの運動性に負わせた基本形態、円柱、円錐、球体は、キュビスムでは直方体にまとめられ、時間ごとの対象像はそれぞれキューブに還元され並列化されていく。対象がキューブに解消してしまう一歩手前、辛うじて対象の像が残された時点で制作は終わりとなる。
キュビスムの空間は近代絵画の概念的な達成であると同時に限界でもあった。そこから歩を進めれば絵画の枠組み自体を捨て去ることになる。ピカソは「自然は何ものよりも強い」と言い残し、再びかつての古典、近代の絵画の領域に回帰していった。

事象の概念化をさらに進め、時間と運動をテーマとした現代の絵画表現をみるには、後のデュシャンの登場をまたねばならなかった。

ピカソの表現の規範<概念像>の変換

若い時期に古典の写実を極めたピカソは、完成した表現の規範である<概念像>をいったん崩すことで、あらたな表現を探る。
彼が援用する規範は、幼児期の素朴な<概念像>であったり、原始文化の<概念像>を借用したものだったりする。彼のキュビスムの表現はこうした試みのひとつとみられる。彼はそうした前衛的な試みからいつでも元の古典表現に戻ることができた。こうしてピカソは、近代芸術の領域内で、あらたな表現の可能性を限りなく探り続けたのである。

6)抽象画の誕生

指示表出性の要素からの抽象表現 モンドリアン

 近代の抽象画表現に至った一人がモンドリアンである。彼は近代科学の要素還元の方法をとる。木を対象に連作を重ねながら、非本質とみられる要素を次々に省いていく。その結果、世界と自己をつなぐ本質要素として残されたのが、水平、垂直の直線と三原色、白と黒の無彩色であった。彼は絵画の指示表出性の要素を還元することで抽象画に至ったといえる。

自己表出性の要素からの抽象表現 カンディンスキー

一方、絵画の自己表出の要素を強化し、抽象表現に至るのがカンディンスキーである。ある夕暮れ、彼はアトリエに見慣れぬ絵画を発見する。対象の描写から解き放たれた線と色彩の乱舞によっていわば、見事な音楽のように構成された絵画。気づけば、それは自身の線と色彩の強調を試みた風景画をさかさまに立てかけたものだった。この偶発的な発見を機に、彼は  対象の描写を離れ抽象表現に乗り出したという。
彼らの抽象表現は、いずれも近代絵画の限界域に近づく表現である。

7)近代の世界観への疑義の表明 ダダイズム

第一次大戦に向かうヨーロッパにあって、時代に抑圧され窮地にたつ人間性のわずかな活路を求め、極端な自己表現を繰り広げるダダイズムがあらわれる。
ダダイズムは1916年、第一次大戦を避けてスイス、チューリッヒに集まった前衛芸術家たちによる反戦の意味をこめた反芸術運動である。フーゴ・バルの文学キャバレー「キャバレー・ヴォルテール」で前衛的な詩の朗読、音楽会、展覧会が催された。運動はベルリン、ニューヨーク、ハノーバ、パリなどに広がった。
その表現は、意味不明の詩の朗読、ナンセンスなパフォーマンスなど、戦争に向かいつつある既成の秩序を否定、破壊し、自由な精神のあらたな地平を見出そうとするものであった。その前衛性は現代美術の萌芽が含まれる。

8)無意識レベルに表現領域を拡張するシュルレアリスム

1924年、アンドレ・ブルトンがシュルレアリスム宣言を発表する。近代的理性による表現の追究がいきづまるなか、シュルレアリストたちは無意識レベルに活路を見出し、結びつくはずもなかった事象やイメージを自在に関連づける道を開いた。
詩人ロート・レアモン「こうもり傘とミシンの出会いほど美しいものはない」のフレーズに象徴される。
第一次大戦から第二次大戦に至って近代ヨーロッパ社会の旧秩序は破たんする。それに伴い、近代絵画の追究はとん挫する。
近代絵画自体の限界はどこにあったのか。それは、画家たちが対象をいかに再現するかという視覚の地平から離れ得なかったことに起因していた。アインシュタインの相対性理論にみるように、時代の世界認識はすでに、視覚によって検証される領域を超え、より高度な概念的領域にまで広がっていたのである。